松川事件と関係資料の収集事業について

 この松川事件資料目録は、福島大学松川資料室が収集・所蔵する松川事件関係資料をまとめたものである。
 資料そのものの解説のまえに、対象となる松川事件と資料収集の経緯などについて、最小限の説明をしておくべきであろう。
 すなわち、いまだ占領下にあった1949年8月17日未明、国鉄(現在のJR)東北線金谷川~松川間で上り普通旅客列車が脱線転覆し、乗務員3人が死亡した。松川事件これがいわゆる松川事件である。これは急カーブ地点での線路破壊(外軌の取りはずし)の結果であった。当時、国鉄の公共企業体化と10万人首切りが断行され、国鉄労組福島支部が首切り返上闘争の先頭にたっていた。また、100万人の人員「合理化」をすすめる民間部門については、東芝争議の動向が決定的な位置をしめていた。かくして、松川事件の「容疑者」として国労福島支部関係の10人と東芝松川工場労組関係の10人が逮捕・起訴されたが、その中心は組合幹部=日本共産党員であった。
松川裁判 その結果、松川事件はたんなる一地方の鉄道破壊事件としてではなく、その後の戦後史に一局面をひらく一大事件として、今日にまでその有形無形の影響をおよぼすことになった。20人の被告をめぐって展開された松川裁判は、14年の歳月と5度の審理をへて、1963年9月12日に全員無罪が確定した。また、この間に発展した「公正裁判要求」、「被告救援」を中心とするいわゆる松川運動は、世界の社会運動史上において特筆すべきものであり、今日においても、松川運動の経験が民主主義運動の重要な教訓として継承されている。
 ともあれ、松川裁判終結から1年後、1964年8月17日には15年の時効が成立し、真犯人追及は公式に放棄された。また、無罪確定判決1周年にあたる64年9月12日には、事件現場を見下ろす線路わきに、松川運動の勝利を記念し、こうした冤罪・謀略事件の再発を許さないための記念碑(松川の塔)が建立された。松川の塔同時に、松川裁判をつうじて明らかになった検察・警察側の権力犯罪の責任を追及する松川事件国家賠償裁判が提起され、国家の不法行為にたいする一定の損害賠償が認められた。国賠裁判は1970年8月1日の東京高裁判決をもって決着した。そして、2つの裁判(松川事件裁判と松川国賠裁判)を支えた松川運動も、ここにその歴史的な使命を終えた。
 かくして、この2つの松川裁判と松川運動が形成した膨大な歴史的資料は、「適当な学術機関」として法政大学大原社会問題研究所に贈与され、ほぼ1年間の整理作業ののち、『松川裁判と松川運動に関する資料目録』(1971.12)にまとめられている。この表題の含意は自明であろう。
 一方、松川事件の地元に位置する福島大学は、1980年に前後して福島市内から郊外の金谷川キャンパスに統合移転した。新キャンパスは金谷川駅に隣接し、事件現場とは2キロ余りの至近距離にある。こうした新しい立地条件は、学内に松川事件への新たな関心を呼びおこすきっかけとなり、教育実践の一環として松川事件をとりあげたり、ささやかながらも関係資料を収集したりする動きが芽生えてきた。一方、高齢期を迎えた地元の松川関係者の間からは、改めて本格的な資料の収集と保存を要望する声が高まってきた。そして、およそこの2つの動きが合体するかたちで、資料収集についての検討が開始され、1984年6月27日の経済学部教授会決定によって、資料収集が正式に開始された。資料収集の実務は教官有志による松川資料研究会が担当した。
松川資料室 資料収集の開始にあたって、「松川事件の風化を防ぎ、後世に正しく引き継ぐこと」「地元に相応しく最大限の資料収集に努めること」「収集・整理・保存・活用・公開を一体的に推進すること」が、基本方針として確認された。そして4年後の88年10月31日の「松川資料室」の開設は、こうした方針の当然の帰結であった。しかし、えてして資料室の開設がそのまま資料活動の停滞・休止に至る場合があり、わが松川資料室についてもその可能性をはらんでいた。ただし、その具体的状況はあえて触れないことにする。
 ともあれ、ようやく開設にこぎつけた松川資料室は、質・量ともに極めて貧弱であり、およそ完成された資料室として天下にほこれるものではなかった。そのため、資料室の前進を目指す新たな努力が始まった。他方では、これに応えるように資料室見学者が増え、資料室と事件現場を合わせて訪ねる「松川ツアー」の動きが年々広がっていった。こうして、70年代以降衰えつつあった松川事件への関心は大きくよみがえり、とかく意識的に遠ざけていた地元の人たちもようやく公然と松川事件に眼を向けるようになり、「不可解な事件」としてアイマイな報道に終始してきた地元のマスコミも、松川事件を「戦後最大の冤罪事件」として報じるようになった。こうした変化に松川資料室の存在が役立っていることは間違いないであろう。松川資料室はたんに見学の対象としてだけではなく、様々な分野の人たちによって活用されている。
現在の松川事件現場 2009年は松川事件発生60周年にあたり、この年10月、福島大学を会場に記念の全国集会が開かれ、全国から1500人余が参集した。これまた松川資料室の存在が大きな力となったはずである。その他、全国規模の学会・研究会などが福島で開催される際のアトラクションとして、松川資料室の見学が日程に織り込まれることが増えている。松川資料を素材とする著作・論考も着実に増えている。これを可能としているのは、今や10万点を数えるに至った松川資料の存在であり、その活用を可能にする丹念な資料整備と資料案内・サービス活動の励行である。
 この度のデータベース化は、こうした活動の集大成として位置づけられており、一般の図書館蔵書目録の形式をこえた新たな水準を目指すものである。

                       (2011.7.1  伊部 正之)