資料室便り

松川事件 ―検察の犯罪

松川事件 ―検察の犯罪              

                                                                     伊部 正之(松川資料室研究員)

■松川事件の概要
 1949年8月17日の未明、国鉄東北本線の金谷川~松川間(福島市郊外)で上り旅客列車が脱線転覆し、先頭機関車の乗務員3人が死亡した。原因は何者かがカーブ地点の外側レールを取り外したからであった。
 捜査に当たった警察・検察当局は、国鉄労組福島支部・東芝松川工場労組の関係者による犯行と断定し、各10人を逮捕・起訴した。検察側が主張する起訴事実は、8月12~16日の一連の順次共謀に基づいて、国鉄側3人と東芝側2人が現場付近で落ち合って20分ほどで線路破壊を行ったというものである。
 5審に及ぶ松川裁判の経過は、第一審は全員有罪(死刑5、無期懲役5など)、第二審は17人有罪(死刑4、無期懲役2など、3人無罪)、上告審は破棄・差戻し、仙台高裁差戻審は全員無罪、再上告審は検事上告棄却・無罪確定であった。
◆はじめに
 松川事件の捜査に当たって、検察・警察関係者は、いわば組織ぐるみの違法行為を繰り返した。さらに、裁判の追行においても検察官の不法行為は枚挙にいとまがない。それは本稿の最後に改めて再確認することとして、まずはその代表的な事例を3点に限って紹介したい。

◆度重なる自白の変更
 事件の捜査は地元の警察を総動員して進められ、福島地検も総力をあげて参画した。福島地検では、安西光雄検事正が総指揮官となり、山本諌・鈴木久学・田島勇の3検事が捜査の中心に当たるとともに、第一審ではこの3人が立会検察官となった。そして、彼らによる取調べは極めて残忍なものであったが、法廷での証言では「記憶にありません」「そのような事実はありません」「云ったことはありません」等々を連発した。しかし、これら3検事の公務員職権乱用に関する起訴強制請求(いわゆる準起訴請求)について、裁判所は請求を棄却する一方で、その種の犯罪事実の存在を事実上認定せざるを得なかった。また、事件の捜査には各地から6人の応援検事が動員された。彼らは検挙の開始から起訴に至るまでの2ヵ月間ほど、被疑者の自白確保などに辣腕を振るった。検察による犯罪行為は、上級審にも続いていく。
 さて、最初に検挙されたのは、事件前から狙いを付けられていた元線路工手の赤間勝美であった。赤間検挙の口実は前年のささいなケンカであったが、取調べはもっぱら列車転覆事件であった。事件当夜、彼は夜半過ぎに帰宅して寝ていたが、山本検事(事件捜査の主任検事)は、赤間のアリバイを消すために、祖母の供述調書を意図的に操作するなどした。絶望した赤間は泥沼の自白に追い込まれていく。こうして「赤間予言」(列車転覆がある)を認めさせられ、さらには現場実行犯の一人にされてしまった。
 赤間自白をきっかけにして新たな検挙と自白の連鎖が始まり、8人が自白に追い込まれた。その多くは年齢が若く、社会的経験に乏しく、精神的な弱点を抱えていた。
 しかし、検察・警察によるツギハギだらけの事件の筋書きはたびたび辻褄が合わなくなり、その度に自白の内容も繰り返し大きく変更された。裁判が始まると、被告たちが冒頭で自白を全面的に否認しただけではなく、変転著しい自白の信用性・任意性が極めて疑わしくなり、最高裁での差戻し判決、仙台高裁での無罪判決につながった。

◆「来訪者芳名簿」を隠せ
 さて、起訴事実で指摘された順次共謀とは、一連の共謀行為が互いに不可分の因果関係にあることを意味する。さらに、この順次共謀の中には、国鉄と東芝を結びつける8月13日と15日の連絡謀議が含まれている。したがって、この連絡謀議の存否は、国労・東芝という2つの労組を事件に結びつけるための前提条件であり、虚偽の自白とアリバイ証拠の隠匿などによって連絡謀議の存在を維持することは、検察側の主張の生命線であった。
 はたして、8月13日午前の第1回連絡謀議(福島駅近くの国労福島支部事務所)では、列車転覆の実行を承認し、細部は15日に再度集まって相談することとされていた。この連絡謀議には松川側から佐藤一(東芝労連から松川工場労組の応援のために派遣されて11日に来松したばかり)ら2人が参加したことになっていた。しかし、そこに出席して指導的な発言をしたとされる国鉄側の斎藤千(ゆき)は、12日に逮捕された支部副委員長への面会・差し入れのために、13日には郡山市警察署に出かけていた。それは郡山市署の「来訪者芳名簿」によっても明らかであり、斎藤のアリバイと13日連絡謀議の不存在を示すものであった。
 そこで、11月2日、桑名小信吾副検事(三春区検)がその他の関連帳簿類とともにこれを押収し、柏木忠検事(山形地検)が11日に押収した別の帳簿類とともに、山本検事の受入命令によって一括して松川事件領置物とされた。50年8月26日、山本検事は第一審の主任検事として、このアリバイ証拠を隠したままで斎藤のアリバイは成立しないと論告し、斎藤ら10人に死刑を求刑した(判決は懲役15年)。
 そして、第二審判決では、結局は第1回連絡謀議の存在が否定されて、斎藤ら3人が無罪となり、検察側が上告しなかったために、そのまま確定した。にもかかわらず、検察側が主張する順次共謀の決定的な破綻を救ったのは、裁判所側の「別な方法で連絡すれば15日の連絡謀議は可能」という勝手な推認であった。
 その来訪者芳名簿等は、1958年8月28日になってから、郡山署に密かに還付された。検察側は、「ここまで来ればもう大丈夫」と判断したのかも知れない。しかし、これらの重要書類は、後の国家賠償裁判の第一審で証拠採用されて、検察の犯罪事実を見事に証明することになる。

◆「諏訪メモ」も隠せ
 起訴事実によると、8月15日午前の第2回連絡謀議(同じく国労支部事務所)では、線路破壊のための細部の手順を確認したことになっている。今度は松川からは佐藤一だけが出席したという筋書きになっていた。一方、松川工場では12日に工場の分離と32人の解雇が正式に通告され、騒然とした状況になっていた。翌13日には工場幹部が雲隠れする中で、通告撤回を求める自然発生的な追及交渉が行われ、そこには佐藤一もいた。そのため、松川工場の動静に注目していた捜査当局は、とりわけ佐藤の行動を十二分に承知しており、証拠の類は早々に遺漏なく押さえ込んだつもりであった。
 ところが、10月24日になって、笛吹(うすい)亨三検事(大阪地検)が松川工場に出向いて諏訪親一郎事務課長補佐を取り調べたところ、諏訪から大学ノート(諏訪メモ)が示された。そこには、佐藤が13日に松川工場にいただけではなく、15日午前の団交にも出席して最後に発言していることが記されていた。
 そこで笛吹検事は、この諏訪メモを提出させて持ち帰り、安西検事正らと協議した。その結果、15日連絡謀議の存在を何としても死守するために、佐藤の福島行きの時間を遅らせたことにした上で、諏訪メモと食事伝票(佐藤が昼食時に松川にいた証拠)を隠匿して、このピンチを逃れる方策を案出した。かくして佐藤は、国労との連絡謀議、それに基づく松川工場内での謀議、現場での実行行為を理由として、山本検事から死刑を求刑され、第一審、第二審とも死刑を判決された。
 その諏訪メモは山本検事によって秘匿され、その後さらに大沼新五郎副検事(安西検事正の子飼いの腹心)が転勤の度に東北各地を持ち歩くことになる。やがて、諏訪メモの隠匿が国会でも追及されたため、ようやく58年9月4日になって、こっそりと諏訪に返還された。検察側は諏訪がこれを私物として廃棄することを期待したのかも知れない。58年11月に最高裁大法廷で口頭弁論(10回廷)が開かれるのを前にして、大法廷は弁護団の申請をいれて諏訪メモの提出命令を出し、4日に提出された。
 最高検察庁公安部長の井本台吉検事は、この口頭弁論において「検察官は公正である。諏訪メモは、(被告の)利益、不利益に関係がない(証拠価値がない)と思ったから出さなかったまでだ。」と釈明した。それなら、何故に隠し続けたのであろうか。しかし、59年8月10日の最高裁判決は、この諏訪メモを重要証拠の一つとして、第二審判決を破棄し、仙台高裁に差し戻した。こうして、松川無罪の道が大きく開けていった。

◆検察の権力犯罪を正した松川運動
 さて、この松川刑事裁判(49~63年)の結論は、被告は無実であるが故の無罪ということであった。さらに、その後の国家賠償裁判(64~70年)の結論は、「原告(元被告)は全証拠に照らして無実」であること、さらに「本件捜査、公訴の提起(起訴)およびその追行(裁判の継続)は一連の行為として違法」であることを論定して、被告(国)に賠償を命じた。この断固たる判決に対して、被告国側はもはや上告して争うことさえ諦めざるを得なかった。つまり、本稿の冒頭で述べた断定的な結論は、筆者の単なる私見ではない。
 にもかかわらず、検察・警察・裁判所は、こうした世紀の悪行に対して全く反省の態度を示してこなかっただけではなく、あえて挑戦的な人事を行った。松川事件で重大な役割を果たした井本検事(最高裁での立会検事、戦前の思想検事)は検事総長(67.11~70.3)となり、辻辰三郎検事(大阪地検)も検事総長(79.4~81.7)に昇りつめた。また、事件捜査の総指揮をとった新井裕(ひろし)国警隊長(現在の県警本部長)は、警察庁長官(65.5~69.8)にまで栄進した。有罪判決を下した一、二審裁判長は栄転し、無罪判決の差戻審裁判長は家裁所長に左遷された。
 松川事件の実行行為と冤罪裁判の裏側で同一の黒い力が働いていたことは明らかであり、これを最終的に打ち破ったのは世論の力(松川運動)であった。検察の犯罪、歪んだ裁判を正すためには、何よりも国民の自覚的な監視と行動が不可欠である。

〈付記〉本稿は『法と民主主義』No.454(2010年12月)に掲載された。
    なお、本稿は他の「特集」執筆者とともに「法と民主主義 特別賞」を受賞した。
      あなたは、「法と民主主義」2010年12月号の特集「検察の実態と病理 真の
     検察改革を実現するために」において、多くの具体的事例を通じて検察の病理
     というべき実体を分析し、改革の必要性と方向を明確に示しました。さらなる
     実態解明の取組みと、取り調べの可視化実現の闘いに向けて、一つの橋頭保を
     築くものであり、そのことの意義を高く評価し、本賞を授与して、これを顕彰
     いたします。
            2011年7月9日   日本民主法律家協会