資料室便り

松川事件と松川資料室

松川事件と松川資料室
                         伊部 正之(福島大学松川資料室)

1 1949年夏の国鉄3大事件 …その意味と狙い
 日本がいまだ占領下にあった1949年は、アメリカの対日占領政策が大転換した年であった。ドッジ・ラインを具体化した超均衡予算の実施は、行政機関職員定員法による各省庁や公共企業体(国鉄など)の大幅人員整理と、価格差補給金の廃止による民間企業の大規模な首切り・合理化をもたらした。これに反対する労働運動の先頭には、国鉄労組(国労)と東芝労連が立っており、こうした中で、国鉄の線路上で奇怪な事件(国鉄3大事件)が相次いで発生した。
 まず、7月4日に国鉄が3万700人の第1次人員整理を発表すると、翌5日朝、下山定則国鉄総裁が出勤途上に失踪し、6日未明に常磐線下りの綾瀬駅手前(足立区)で轢断死体となって発見された(下山事件)。司法解剖を担当した東大医学部法医学教室は、遺体の状況から死後轢断(他殺)と鑑定した。そのため、国労や共産党による犯行が疑われ、首切り反対闘争は足元をすくわれてしまった。しかし、程なくして犯人追及の矛先が国労や共産党から占領軍に転ずるに及んで、事件は強引に自殺説で灰色決着した。
 下山事件を悪用した人員整理の成功に味を占めた国鉄当局は、予定を早めて7月12日から6万3000人の第2次人員整理を開始した。すると今度は、またしてもこれに反発するかのように、7月15日夜、中央線三鷹駅構内(当時は三鷹町)で無人電車が暴走して、市民・乗客6人が死亡し、20人が重軽傷を負った(三鷹事件)。吉田首相は直ちに「不安を煽る共産党」と声明し、国労・共産党犯人説を増幅させた。このため、国労による首切り反対闘争はまたしても腰砕けとなり、国鉄の大量人員整理は7月中に事実上決着した。
 三鷹事件の犯人として共産党地区委員を含む10人が逮捕・起訴された。裁判の結果は、竹内景助被告(唯一の非党員)の単独犯行と認定され、共産党員は全員無罪となった。竹内は一審無期懲役、二審死刑の後、最高裁で死刑が確定し、再審請求中に獄死した。そして現在、竹内の長男が様々な困難を乗り越えて再審請求に立ち上がっている。
 三鷹事件は一般市民を巻き込んだことで下山事件よりも重大であり、巷では「第2、第3の三鷹事件が起こる」というウワサが飛び交っていた。果せるかな、8月17日未明、今度は東北本線金谷川~松川間(現在の福島市南部)で上り旅客列車が脱線転覆し、先頭機関車の乗務員3人が死亡した(松川事件)。時の官房長官(元福島県知事)は、三鷹事件以上の凶悪性を強調して、国民の間に決定的な恐怖感を植え付けた。
 このように、国鉄3大事件の内容が順を追って重大化していく(国鉄要人の変死→無人電車の暴走→旅客列車の転覆)一方で、下山事件の自殺説による決着、三鷹事件の共産党員全員無罪というその後の経過は、この2つの事件への関心を弱め、松川事件をめぐる動向に特別な重みを持たせることになる。
 そして、松川事件の真の狙いは、総選挙で躍進した共産党に大打撃を与えるという政治的効果と、労働運動を右寄り再編して体制内化させるという社会的効果を一挙的に実現させることであった。当時の緊迫した内外情勢は、GHQ=アメリカ軍にそれほどまでに重大な危機感を与えていた。国鉄3大事件の全てが、東芝争議にも見事に利用された。

2 松川事件 …恐ろしい謀略事件
 1949年8月17日午前3時9分(現在の2時9分)ごろ、東北本線金谷川~松川間の右カーブ地点で上野行き上り第412普通旅客列車が脱線転覆した。現場は当時の金谷川村と松川町の境界地点にあたり、人家からも遠く離れていた。脱線転覆の原因は、カーブ外(左)側のレールが取り外されていたからであった。このため先頭機関車と炭水車がほぼ仰向けに転覆し、これにつづく荷物車2両と郵便車も大きく脱線したが、客車・乗客に重大な被害が及ばなかったのはせめてもの幸いであった。
 当時の使用レールはいわゆる37キロレール(37キロ×25メートル=925キロ)であった。現場では、カーブ地点の左側レールがほぼ真っ直ぐな状態で13メートルほど前方に跳ね飛ばされ、前の半分ほどが土中に突き刺さっていた。これは、問題のレールを固定する継目板・犬釘・チョック木(軌条支材)が全て取り外され、あらかじめレールの手前を内側に、前方を外側にずらしておいたために、そのレールが走行してきた機関車の左動輪によって強く打ち出されたことを意味していた。これを確実に実行するためには、相当多くの人員・道具・時間が必要なはずであった。
 事件が発生するのと前後して異常に早く現場に現れた国家地方警察(国警)福島県本部捜査課次席の玉川正は、犯行道具はバールとスパナであると予言し、その出所は松川駅か金谷川駅に違いないとして、部下を調査に走らせた。果たして、その部下たちの戻り報告を待つまでもなく、玉川の予言通りのバール1本、自在スパナ1挺が、現場脇の水田から直ぐに発見され、直ちに水洗いを指示された。その目的が余計な指紋・掌紋の消去にあったことは疑う余地がない。
 発見されたバール(145センチ)には、XY字を思わせる彫り込みが施され、迷彩塗料らしきものが付着していた。特にY字はGHQ(連合国軍総司令部、当初は横浜に設置)=アメリカ軍の備品(Yはヨコハマのイニシャル)であることを連想させ、バールの太さも米軍用の33キロレールに使用されるような細さであった。また、自在スパナ(24センチ)は継目板のナットを緩めるための道具と見られたが、もともと自在スパナは継目板用の道具ではなく、おまけに使用の痕跡さえなかった。実際、この作業には専用の片口スパナ(61センチ)が使用され、継目板のボルトを打ち出すために使われたはずの8ポンドハンマーは見つからなかった。つまり、ここでこれ見よがしに発見されたバールやスパナは、本当の犯行道具ではなく、明らかに外部(おそらくアメリカ軍関係施設)から持ち込まれたものであった。同時に、道具の運搬(搬入・搬出)などを担当する別動隊がいたことも確かであろう。
 ともあれ、こうして大々的な捜査が始まった。まずは「玄人の計画的犯行」として、先の人員整理で解雇された国労組合員の犯行が示唆され、さらには「素人の参加の可能性もある」として、捜査の対象が拡大された。8月26日、新井裕(ひろし)国警県本部隊長(現在の県警本部長)は、「基本捜査は、2本の幹線と10本位の支線があり、これを1本にできればしめたものだ」と語った。その後の展開は、国労福島支部と東芝松川工場労組から、各々10人ずつの労働者を逮捕・起訴するという事態に行きつくことになる。予言はここでも的中した。

3 警察・検察のワナ …事件の事前準備
 その逮捕のきっかけに利用されたのが、7月5日に国鉄を解雇されたばかりの赤間勝美少年であった。赤間は元線路工手として線路破壊劇には打って付けの役者となるはずであり、おまけに不良行為によって警察に弱みを握られていた。そこで警察は、その不良仲間を操って赤間が列車転覆を予言(赤間予言)したことにした。9月10日に別件逮捕された赤間は、身に覚えのない列車転覆の謀議と実行行為の自白に追い込まれた。こうして赤間は改めて列車転覆事件(松川事件)で再逮捕され、その後の4次にわたる検挙と自白の繰り返しの末に、国労10人、松川工場10人の大量被告が形成された。過酷な取調べに屈服させられた自白者は8人に上った。
 警察・検察は、列車転覆に先立って別の手も打っていた。8月12日に国労福島支部の副委員長が6・30郡山デモ事件の名目で逮捕され、翌13日には同じく6・30県会赤旗事件に絡む県公安条例違反という口実で東芝松川工場労組の執行委員が逮捕された。この2人の逮捕は、2つの組合が共同して列車転覆を企てる動機の説明に利用された。すなわち、仲間の逮捕に怒った国労の活動家たちが、早速12日朝に松川工場労組の組合長に電話で来福を持ちかけ、同じく仲間の逮捕で危機感を抱いたこの組合長が13日に代理を派遣したというシナリオである。
 こうして、8月12~16日に11回の順次共謀が行われ、17日未明に国鉄側の3人と松川側の2人が現場で落ち合って線路破壊を実行したというのが、裁判冒頭で検察側が示した事件の構図であった。犯行道具は松川側の3人の若者が16日夜に松川駅の線路班(保線)倉庫から盗み出して用意し、松川側の2人の実行犯が現場に持参したことになった。線路破壊は午前2時ごろから30分ほどの間に実行されたことにされたが、その時間帯に現場を通過する予定の下り貨物列車が、手前の白河駅で運転を打ち切られていた。列車の運行管理はGHQの権限に属していた。
 さらに、順次共謀とは、一連の共謀行為が不可分の前後関係で繋がっているという意味である。これは一面では犯行計画がいかに周到に準備されたかを示すとともに、他面ではもしも順次共謀のどれかが不存在となれば、その後の共謀行為や実行行為も存在し得なくなるという危うさをはらんでいる。さらに、順次共謀の中には2つの組織を直接結びつける連絡謀議が設定されていた。特に、福島駅近くの国労事務所で行われたとされる2回の連絡謀議では、13日に線路破壊の実行が了解され、15日にその具体的な手立てが確認されたことになっていた。ところがその存在を否定するアリバイ証拠が明らかになったため、検察側はその証拠資料を押収して隠匿し、自白被告には辻褄合わせのための新たな供述変更を強制せざるを得なかった。

4 松川裁判 …全員有罪から全員無罪へ
 松川事件の刑事裁判は、49年12月5日から福島地裁で始まった。第一審の長尾信裁判長は、公平な審理とは程遠い訴訟指揮を行なった。すなわち、自白被告を証人とし、その証言を利用して否認被告の有罪証拠にしようとした。長尾裁判長はまた、国鉄側実行犯とされた高橋晴雄被告の身体障害を治療した医療機関の鑑定(歩行・線路破壊は不可能)を隠したままで審理を進めた。かくして検察側は、無実を承知で死刑10、無期懲役3などを求刑し、裁判長もまた占領軍の脅しに屈服して死刑5、無期懲役5を含む全員有罪の判決を下した。かくして長尾裁判長は、定員満杯の名古屋高裁判事に大栄典した。
 第二審では、真っ直ぐ跳ね飛んだレールと手前の継目板だけを取り外したという検察側主張の矛盾が改めて問われた。その結果、検察側は2組目(前方)の継目板を渋々提出せざるを得なくなった。それでも検察側は論告求刑で控訴棄却(一審判決支持)を主張し、鈴木禎次郎裁判長が「真実は神様にしか分かりません」と言い訳しながら下した判決は、一方では13日連絡謀議を含む5回の順次共謀を否定しながらも、他方では15日連絡謀議と17日実行行為を新たなこじつけによって死守した。判決は死刑4、無期懲役2を含む17人を有罪とし、13日連絡謀議に関わる3人を無罪とした。検察側は順次共謀の主張が崩れたにも拘らず、あえて上告しなかった。退官後に弁護士に転じた鈴木元裁判長は、占領軍による脅迫に屈して有罪判決を下したことを告白し、死を前にして「被告たちには大変申し訳ないことをした」と述懐した、と伝えられている。
 最高裁では、弁護側の度重なる要請によって口頭弁論の開廷が実現した。それは何よりもまず最高裁が書面審理だけで上告棄却の決定を下すのを避けるための必要条件であった。口頭弁論に合わせて、これまで検察側が隠匿していた「諏訪メモ」(決定的なアリバイ記録の一つ)などが提出されて回覧された。その結果、最高裁大法廷は原判決を破棄し、審理を仙台高裁に差戻した。ただし、その評決は7対5という際どいものであった。
 仙台高裁の差戻審では、門田実裁判長が検察側に捜査段階での供述調書などの提出を勧告し、検察側は1560通を提出した。これは、かねて被告たちが法廷で繰り返し述べてきたことがいかに真実であり、取調べ段階で被告の自白がいかに不自然に変更されたかを十二分に証明していた。にも拘らず、検察側の論告求刑は、臆面もなく旧二審判決が相当と主張したが、差戻審判決(門田判決)は、被告全員(17人)の無罪を宣告した。その門田裁判長は、仙台高裁の刑事部統括判事という高い地位にあったが、その後は福岡家裁所長に左遷され、さらに名古屋家裁所長を経て定年退官する。つまり、最高裁はあえて見せしめ人事を行い、司法人事の空恐ろしさを実証して見せた。
 しかし、今度は検察側があえて再上告した。もはや勝ち目のない再上告は、「乱上告」の批判を免れないものであった。とはいえ、再上告の意味は、検察側の面子もさることながら、最高裁での微妙な力関係による逆転有罪または再度の差戻しの期待であり、さらには時効成立までの時間稼ぎであった。このため、今回もあえて口頭弁論が開かれたが、結局63年9月12日、最高裁は3対1の評決で検事上告を退け、被告の無罪が確定した。
 このように、無実の被告たちにとっては、裁判に掛けられること自体が事件であり、その意味で、松川事件とはまさしく松川裁判事件であった。64年8月17日午前0時、松川事件の公訴時効が成立し、真犯人の追及が放棄された。
 その時効成立を前にして、元の被告・家族は、松川事件のような権力裁判の再発を許さないことを目的にして、国を被告とする国家賠償請求訴訟(国賠裁判)を東京地裁に提訴した。そこで掲げられた論理は、松川事件の全体に関わる捜査・逮捕・起訴・裁判追行の全過程を一体不可分のものと位置づけて、時効の開始点を確定判決日の63年9月12日としたことであり、これはまさに松川裁判事件の追及そのものであった。この民事裁判では、元被告の無実の再確認に加えて、国家機関による明白な故意過失という不法行為も認定されて、原告側の全面勝訴となった。そのため、被告の国側は上告を断念し、裁判は70年8月に確定した。
 刑事・民事の松川裁判は、21年・7審に及ぶ稀にみる長期裁判となって決着した。

5 松川運動 …国労が果たした役割を中心に
 松川事件・松川裁判は、単なる冤罪事件・冤罪裁判事件ではなく、巨大な権力を背景とする謀略事件・謀略裁判事件であった。この究極の困難を打ち破って、無実の被告たちを救出し、公正裁判の実現を通じて裁判(司法)の権威を回復させ、司法と国民の間の本来あるべき関係を切り開いたのが、いわゆる松川運動であった。その意味で、松川運動は世界の社会運動史に輝く金字塔となった。
 その松川運動については、刑事裁判が全員無罪で終結した後の総括活動の中で、「大衆的裁判闘争」と定義されている。無罪の実現と被告の救出こそが運動の中心課題であったという意味では、これは確かに妥当な理解であろう。同時に、真に大衆的といえる運動に成長し得たのは最高裁段階になってからであり、特に「松川守る会」という個人参加の草の根組織が広がり始め、58年3月に松川事件対策協議会(松対協)が結成されて以降には、運動の大衆的広がりがさらに加速されていった。同時に、運動参加者の関わり方の中には、純粋に被告や家族を支援したいという場合もあった。その意味で、松川運動とは広範な国民が参加した裁判批判と被告支援の運動と理解すべきではないか、というのが筆者の年来の理解である。しかし、その壮大な歴史ドラマを紹介するだけのスペースがないので、ここでは松川運動と国労の関係を中心に簡単に紹介したい。
 周知のように、松川事件で左派勢力が大きく後退した後の国労は、当然にも内向きの姿勢になった。しかし、厳しい職場の実態は、それが松川事件の弾圧と通底していることも否定し難い事実であった。こうして国労は、大組合の中でも比較的早い段階で松川事件に取り組むことになる。特に、保釈被告や家族たちの粘り強い働きかけが続く中で、国労の地方組織から徐々に松川への関わりを強め始めた。そして、53年6月の第12回定期大会(鬼怒川大会)は、代議員による緊急動議として提案された仙台高裁への公正裁判要求、国労からの調査団の派遣を圧倒的多数で承認した。被告の出身組合が支援に立ち上がったことに対して、国鉄出身の獄中被告は涙して喜んだ。つづいて、7月の総評第4回大会でも、今度は国労代議員の緊急動議を受けて、同趣旨の提案が可決された。その後の国労や総評は、松川支援の内容を年々発展さていく。総評は春闘オルグとして松川保釈被告を全国に派遣し、国労はその全国組織の特性を生かして、保釈被告の全国オルグを支えた。
 58年3月に松対協が結成されると、国労の土門幸一副委員長がその副会長になった。59年7月には全国鉄松対協が結成され、11月には国鉄当局の禁止命令を乗り越えて強力な国労専門調査団が派遣され、事件の技術的な解明に大きく貢献した。機関誌「国鉄文化」でも松川事件を大きく取り上げたし、その一部は証拠として裁判所に採用された。国労本部や各地の国労組合員が、職場や地域の守る会で大きな役割を果たした。松川裁判が終わった時、国労は無罪となった高橋晴雄を本部書記に、松対協事務局を担った小沢三千雄を調査部に採用した。このように、国労は過去の難しい経緯を乗り越えて、松川運動の重要な一翼を担ったことは紛れもない事実であった。

6 松川資料室 …その光と影
 1970年に松川裁判が終結し、松川運動もその役割を終えた。しかし、冤罪事件はその後も跡を絶たず、救援運動の役割は依然として重要である。そこでしばしば指摘されるのが「松川のように闘おう」ということであり、「松川の経験を今に生かそう」ということである。そのためには松川事件・松川裁判・松川運動の資料を収集・整備して、広く社会の利用に供する必要があった。それはまた松川以後の松川運動の一形態といえるかも知れない。
 1981年春、福島大学が福島市内から郊外の福島市松川町への統合移転を完了した。ここは金谷川駅の東側の丘陵地に立地し、事件現場までは約2キロの至近距離にあった。これが大学人の一部に松川事件を改めて想起させるきっかけとなった。他方では、すでに高齢期を迎えつつあった松川関係者からも資料の本格的な収集と保存を望む声が高まり始めていた。こうして、84年6月に経済学部教授会が松川事件資料の収集活動の開始を決定し、筆者もその担当メンバーの一人に指名された。
 事業の開始にあたって筆者がまず考えたのは、①松川事件の風化を防ぎ、後世に正しく引き継ぐこと、②地元に相応しく最大限の資料収集に努めること、③収集・整理・保存・活用=公開を一体的に推進すること、という3つの原則であった。同時に、この3原則を貫くには独自の資料室の確保が必要であった。資料室の確保と公開は、わが身の分身のように大切にしてきた関係資料を提供する人たちが何時でも自分の資料に会いに来られるようにすることによって、資料を提供し易くする効果も期待できた。それは同時に、資料の扱われ方の点検の機会ともなるはずであった。こうして、資料収集の開始から4年を経て、88年10月に松川資料室がオープンした。収集資料の点数は公称5万点であった。資料室の名称を松川事件資料室としなかったのは、下山・三鷹事件をはじめとして、関連資料もできるだけ広く収集するためであった。
 そして、資料室の整備にあたっては、資料の探索と収集を進めるために地道な努力を積み重ね、こうして集まった資料の保存と公開=活用を両立させるために独自の方法を編み出し、レファレンス機能を兼ね備えた目録を作成するために新たな工夫を取り入れてきた。その甲斐あって、資料室の所蔵資料は今では公称10万点に増加している。資料室には毎年のように相当数の見学者が訪れ、事件現場と合わせた「松川ツアー」が企画され、地域や団体などからの出前依頼もある。毎年のように、学生のレポート作成や地元の小中高生の見学などにも役立っている。また、松川資料室に依拠した各種の著作、学会発表なども相当数にのぼり、マスコミへの取材協力など、様々な役割を担ってきた。
 国立大学の法人化によって義務付けられた大学の中期目標・中期計画にも、松川資料室の充実と活用が書き込まれている。文部科学省の外部評価でも「大学の社会貢献の特筆すべき事例」とされている。2009年秋に福島大学を会場にして松川事件発生60周年記念全国集会が開かれ、全国から延べ2000人が参加した。歓迎挨拶に立った当時の学長は、「松川資料室は福島大学の宝であり、今後ともその存続と充実を図っていく」と高らかに表明して、参加者たちを大いに勇気づけた。その後来学した資料室問題の専門家からば、この種の資料室の中で、松川資料室は質的にも量的にも明らかに最高水準にある、という折り紙をつけていただいた。
 こう見てくると、松川資料室の存在は如何にも順風満帆であるかのような幻想を与えるかも知れない。しかし、実態はつねに存続の危機を乗り越えながらの道のりであった。資料室がオープンして以後は独自の予算が配分されなくなり、それでも資料が増えつづけ、整備が進んできたのは、世にも不思議なできごとである。その背後では、率直にいって学内には松川事件・松川資料に対する根深い毛嫌いや無視の風潮があり、そうした虎の尾を踏むような問題提起を控える限りで、資料室の存続が何とか許されてきたと言えるかも知れない。しかし、その担い手もいよいよ年老いてきた現在、その後継体制をいかに構築するかがますます重要になっている。
 そこで筆者がかねがね構想するのは、松川資料室を松川資料センターに格上げして、独自の予算と人員を確保することであり、ここを国民の共有財産として「松川学」の全国的な研究・発信拠点とすることである。これについては、文部科学省にも一定の理解を示す向きがあるとも漏れ聞く中で、問題はむしろ学内の認識不足にあるのかも知れない。
 その意味でも、国労や組合員の皆さんには、松川資料室の存在意義を大いにご理解いただき、組合運動の一環として資料室を積極的に活用していただければ幸いである。

〈付記〉本稿は『国労文化』(国労機関誌)第500号(2012.6)のための原稿である。掲載にあたっては、編集部による組み替えを元に戻し、誤記・誤植の訂正を行った。