資料室便り

庭坂事件を考える ―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―

庭坂事件を考える ―翌年の松川事件に繋がる謀略事件―

                           伊部 正之(松川資料室)

1 はじめに
 1949年8月17日に東北本線金谷川~松川間(現在の福島市南部)で発生した松川事件(事件・裁判)については、占領下の極めて重大な謀略事件として広く知られている。14年・5審に及ぶ松川刑事裁判(1949~63年)は、被告20人の完全無罪(被告は事件とは全く無関係)を論定した。さらに、引き続く松川事件国家賠償裁判(1964~70年)は、元被告の無実の再確認に加えて、この松川事件の捜査・逮捕・起訴・裁判追行が意図せざる冤罪事件(結果としての冤罪事件)ではなく、国家権力による不法な意図によってなされた権力犯罪であったことを改めて明らかにした。このため、被告=国側は最高裁への上告を断念しつつ、ソソクサと賠償金を支払うことによって、自らの犯罪行為を国民の記憶から一刻もはやく消し去ろうとした。しかし、その後も真犯人の公的な究明がなされずにいることが、松川事件を歴史の彼方に追いやることを依然として阻んでいる。
 ところで、この松川事件の発生から1年4か月ほど前に、同じく現在の福島市西部の奥羽本線で庭坂事件が発生していた。何者かが急カーブ地点のレールを取り外すことによって列車を転覆させる(3人死亡)という手口は、後の松川事件と酷似していたが、結局は未解決のままに終わった。つまり、犯人検挙も起訴・裁判も行われないままの完全な迷宮入りであった。このように、庭坂事件と松川事件は、発生時期や地理的位置の近似性、手口の共通性、真犯人不在の不透明性を共有しており、その意味でも、庭坂事件の解明は松川事件の解明と不可分の関係にある。
 そこで本稿では、この間に福島大学松川資料室が収集し得た数少ない関係資料などを手掛かりにして、庭坂事件の諸相について検討することにしたい。

2 日本の鉄道史から
 庭坂事件を論ずる前提として、日本の鉄道にまつわる彼是(あれこれ)から始めることにしたい。
 日本の鉄道線区(路線)について、一般に○○本線を○○線と略称する傾向が益々強まっているように感じる。おそらくそれは、多忙化する日常生活の中で、すべからく簡略な表現で済ませたいという庶民の心理から生じている現象の表れかも知れない。あるいはまた、仮に簡略化しても何らの実害も生じないという生活経験の結果かも知れない。ただし、○○線と○○本線は、同じ○○を冠していても、厳密には異なる意味になる。例えば、
 東北線 …東北本線+その支線(例えば常磐線はその最長の支線)
 東海道線 …東海道本線+その支線(例えば御殿場線、当初はこちらが本線だった)
 鹿児島線 …鹿児島本線+その支線(例えば肥薩線、当初はこちらが本線だった)
 このように、○○線は○○本線よりも明らかに広い概念である。つまり、大きな線区には本線(幹線)と支線が含まれているということである。一般に本線には特急や急行も走り、支線(ローカル線)には各駅停車のノンビリ列車が似合うかも知れない。ただし、全国には特急が走らない本線や、逆に多くの特急が走る支線もいろいろある。
 さらに、鉄道線区には山線と海線という区別があり、この用語は現在でも使われている。山線は内陸線区、海線は沿岸線区を意味しており、全国の鉄道網を整備する過程で大いに意識された。すなわち、鉄道の建設整備を目指した当初は、軍事攻撃にさらされやすい海線よりも山線を優先する構想が追求された。日本の東西を結ぶ幹線ルート(東京~京都間)について、当初は海線(東海道)を排して山線(中山道)を建設することが予定された(高崎~大垣間、1883.8.6内定)。ところが、群馬・長野県境の碓氷(うすい)峠越えの難しさを知るに至って、中山道から東海道への方針変更を余儀なくされた(1886.7.13)。
 しかし、こうした東日本と西日本を結ぶ幹線ルートの建設が進むにつれて、東京と日本海側を直接に結ぶ列島横断線の建設も益々必要かつ重要となってきた。そこで、高崎線(大宮~高崎間、1884.5.1全通)の延長線上に建設されることになったのが直江津線(高崎~直江津間、1893.4.1開業)である。直江津は輸入資材の陸揚げ港、その手前の高田には陸軍の拠点が置かれていた。ところが、この路線の最大の難所は、かつて断念した中山道幹線構想の碓氷峠であった。そこで、この横川~軽井沢間(約8キロ、標高差約550メートル)には、実に66.7‰(パーミル)の急勾配に対応するアプト式鉄道(スイス人アプトが発明)が敷設(ふせつ)された。この方式は2本のレールの間に歯型レールを敷設し、これを車両側に設置した歯車と噛み合わせて滑りを防ぎ、急勾配区間での推進力・制動(ブレーキ)力を強化しようとするものであった。その後、1914.6.1直江津線は直江津~新潟間の信越線と統合されて、信越本線の一部となった。しかし、1997.10.1長野新幹線が開業すると同時に、横川~軽井沢間が廃止され、在来並行線が切り離された(軽井沢~篠ノ井間 →しなの鉄道に移管)ため、信越本線は今や本線とは名ばかりの線区となっている。なお、高崎から長岡・新潟に抜ける短絡線の上越線(高崎~宮内間、次は長岡)は1931.9.1全通した。ここには谷川岳の下をくぐる長大な清水トンネルがあり、これが開通を遅らせていた。上越新幹線の開業は1982.11.15である。
 このように、山線の建設がいかに大変であったかは明らかであるが、その山線の建設と改良が、トンネル技術の発展などに大きく寄与したことも事実である。さらに、乗客の旅情を楽しませている3大車窓(絶景)は、いずれも山線建設によってもたらされた。すなわち、
  熊本・宮崎県境の肥薩線大畑(おこば)~真幸(まさき)間(1909~11開通) …複雑な線型の連続
  長野県の篠ノ井線姨捨(おばすて)駅(1900.11.1開業)付近 …善光寺平の眺望
  北海道旧狩勝(かりかち)トンネル( 954メートル、1907. 9. 8開通)東側出口 …十勝平野の眺望
  新狩勝トンネル(5810メートル、 1966.9.30開通) …勾配緩和(25‰→12‰)
 とりわけ山線の建設では、当初は山岳地帯の急勾配を懸命に上りつめて、出来るだけ短いトンネルを掘るしかなかった。しかし、トンネル技術の進歩の結果、長大トンネルの掘削が可能になったため、低い標高地点から長大トンネルで抜けることによって、山岳越えの急勾配の回避が進んだ。新しい線区の建設であれ、既設線区の改良であれ、土木技術の進歩、蒸気機関車に代わる電気機関車の採用(これによってスイッチバック駅が大幅に解消)などは、鉄道史の発展に大きく貢献した。
 それはさておき、日本の官設鉄道は、1872.10.15新橋~横浜(現在の桜木町)間の正式開業によって始まった。そして、1877年2~9月の西南戦争(旧武士階級の最後の反乱)は、鉄道の軍事的機能の重要性を政府や軍部に大いに認識させた。しかし、その後の鉄道建設は政府の財政難によって思うにまかせず、その代替策として、政府の利益保証をうけた民間鉄道会社による鉄道建設事業が促されることになった。その典型が1881.11.11正式認可の日本鉄道会社(この壮大な名称には日本の鉄道事業の中心を担おうとする意気込みが込められている)であり、この会社によって現在の高崎線(1884.5.1全通)・東北本線(1891,9,1全通)・常磐線(1898.8.23全通)などが建設された。日本鉄道は、当初は官設鉄道に業務を委託していたが、1892.4.1これを廃止して自営に切り替えた。その後、日清戦争(1894~95年)・日露戦争(1904~05年)を経て、鉄道の軍事的重要性が益々痛感されるに至った。かくして、1906.3.31鉄道国有法が公布されたが、これは兵員輸送等の軍事的観点とともに鉄道経営の効率化を図ることを目的としており、予定した17社が翌年1月までに買収されて、全国の主要幹線が国有鉄道として一元的に管理されることになった。日本鉄道の国有化は1906.11.1であり、民間鉄道の国有化は以後半世紀にわたって実施されていく。
 さて、庭坂事件の舞台となった肝心の奥羽本線について概観しておこう。1899.5.15官設鉄道奥羽南線福島~米沢間が開業し、庭坂・板谷・峠・関根の4駅が設置された。さらに、1905.9.24横手~湯沢間が開業した結果、福島~青森間が全通して、奥羽本線となった。奥羽本線は主として奥羽山脈(脊梁(せきりょう)山脈)の西側を走ると同時に、各県境の峠が難所となっている。特に福島~米沢間は奥羽山脈そのものを越えるため、トンネル15か所のほか、勾配の標準設計25‰という上限を遥かに越える30‰以上の難所が連続する。そのため、急勾配の本線上に駅を設置することが出来ず、スイッチバック駅が赤岩・板谷・峠・大沢という4駅に連続することになる。その後、庭坂~赤岩間、赤岩~板谷間で線路の付け替え工事も行われたが、最大の難所であることに変わりはなく、戦後すぐに福島~米沢間の電化(東北地方では宮城・山形県境の仙山線作並~山寺間に次いで2番目)が図られた。ただし、途中4駅のスイッチバック方式は、電化実施(蒸気機関車を廃止)後も長らくディーゼル(気動)車が使用され続けたため、なお長期にわたって存続することになる。そのスイッチバック駅の廃止は、福島~山形間の新幹線直通化工事に関連して、1990.3.1赤岩駅、同じく9.1板谷・峠・大沢駅で実施された。
 ところで、鉄道事故(事件)の発生地などを示す際の駅間表示は、列車の進行方向に従うことを旨としなければならない。そのため、松川事件の事故発生地点は、松川~金谷川間(下り方向)ではなく、あくまでも金谷川~松川間(上り方向)である。さらに、列車番号は上りが偶数番号、下りが奇数番号である。つまり、列車番号が奇数か偶数かで、列車の進行方向(上りか下りか)が問わず語りに示されることになる。したがって、駅間表示と列車番号の組み合わせを間違うと、はなはだ不都合なことになる。
 列車を牽引する(または後押しする)のが機関車(動力車)であり、蒸気機関車(SL)・電気機関車(EL)・ディーゼル機関車(DL)に大別される。この内、蒸気機関車とディーゼル機関車は動力源を機関車内から確保するのに対して、電気機関車は架線を通じて動力源を外部から確保する。しかし、その後は別仕立ての機関車を必要としない電車やディーゼル車が開発され、機関車は現在では貨物列車(貨車には運転席がない)の牽引に限られるようになった。
 そして、話を蒸気機関車に限れば、古い時代はさておき、動輪の数によってC型(3輪)とD型(4輪)の区別があった。つまり、旅客列車用のC型機関車は車輪の直径がやや大きく、長距離・高速運転に適している。これに対して、貨物列車用のD型機関車は、動輪の直径はやや小さいが、その分だけ重量貨車を牽引するのに適している。ただし、とりわけ急勾配線区では、旅客列車にもD型機関車が投入されることがある。急勾配を上って松川事件に遭遇した旅客列車は、先頭(本務)機関車がC51型機関車、後から押し上げた補助機関車はD51型機関車であった。複数の蒸気機関車が黒煙を吐きながら急勾配を進む重連・3重連の雄姿は確かに絵になったが、これを動かす機関車乗務員(機関士・機関助士=釜焚き)の大変さを思い知るべきである。蒸気機関車には石炭と水が必要であり、これを機関車内に積み込んでおく(あるいは要所の駅で補給する)タンク式機関車と炭水車を後に引いていくテンダ式機関車があり、それは機関車の重量や走行距離に連動する。庭坂事件の場合はタンク式、松川事件の場合はテンダ式の機関車であった。さらに、庭坂事件に遭遇した機関車は、山線専用(力強いが低速走行用)に作られたSL4110型であり、動輪は5輪、その直径は1250ミリ(他の機関車よりも小さい)であった。
 ついでに、レール(軌条)についても一言しておこう。レールの長さは25メートルあり、その1メートルあたりの重量によって37キロレール、50キロレールなどの区別がある。総重量は前者が925キロ、後者が1250キロとなるが、松川事件の後、37キロレールは漸次50キロレールに取り替えられていく。これは優等列車(特急・急行)の導入が進むにつれて、レールへの負担が益々重くなっていくことへの対応策でもあった。そして、前後のレールを繋ぐ継目板(つぎめいた)、レールを枕木(レール1本あたり19本を使用)に固定するための犬釘、カーブ地点(レールが直線状態に戻ろうとする)でのレールの固定を追加的に補強するためのチョック木(軌条支材)が必要であり、そうした作業のための道具として、国鉄専用の片口スパナ(長さ61センチ)、バール(大型釘抜き)、8ポンドハンマーが使われていた。しかし、松川事件で証拠品として提出された自在スパナ1挺、バール1本はいずれもニセ物であり、ハンマーは提出されなかった。レールや道具の規格・数量、実行行為者の人数、作業の時間帯、許容時間などは、線路破壊の可否に連動する。
 はてさて、鉄道について必要と思われる予備知識は他にもいろいろあるが、ともかく、余計な講釈は程々にして、肝心の本論に進むことにしよう。

3 庭坂事件 … 闇米捜索が長引いた末に
 1948年4月27日午前0時4分ごろ、いまだ単線であった奥羽本線赤岩~庭坂間(福島起点8キロ777メートル、庭坂村上戸表、通称:高堤防)で、青森発奥羽本線回り上り上野行き第402急行旅客列車(先頭機関車・郵便車・小荷物車に続いて、客車7両には定員の2倍を超える1250人が乗車)が脱線転覆し、機関士・機関助士・技工(闇米捜索を逃れるためにたまたま機関車に便乗していた)の3人が死亡し、荷物車掌が負傷した。すなわち、
  機関士  管野弘道(かんのこうどう)(26歳) …即死(竹カンムリの管野姓は田村市常葉町(ときわまち)に多い)
  機関助士 三浦忠男(21歳) …即死
  技 工  山岸 孝(19歳) …重傷後死亡
  荷物車掌 武田喜平(48歳) …打撲傷
亡くなった3人には、管轄する新潟鉄道局長から等しく鉄道顕功賞が贈られた。
 当時は奥羽本線回り青森~上野間には2本の直通列車(急行1・普通1)が設定されていた。また、山形や秋田は有数の闇米供給地であり、食糧管理法の統制を逃れて闇米を確保すべく、多くの人たちがこの直通(乗り換えなしで東京に行ける)の闇米列車(買出列車)に殺到していた。薄給に苦しむ国鉄職員の中には、闇米屋の横行を目の当たりにして、セッセと闇米運びを副業にしたり、さらには国鉄を退職して本物の闇米屋に転ずる者までいる時代状況(危険な商売だが当たれば金になる)であった。そのため、米沢駅での闇米一斉捜索はとりわけこの直通列車が標的にされ、山形県川西町出身の作家井上ひさしが書いた「下駄の上の卵」等の作品にもその情景がリアルに描かれている。しかし、闇米捜索は機関車の運転室にまでは及ばない。そこで、顔見知りの乗務員に頼んでトラの子の闇米を運転室に預かってもらう国鉄職員もいた。この事件で犠牲となった技工の山岸孝はもちろん乗務員ではなく、非番(勤務なし)を利用して米の買出しに行き、摘発を逃れるために運転室に潜り込むことに成功していたが故の悲劇であった。事故で列車が止まると、闇米と思しき大きな荷物を抱えた乗客たちが、われ先に線路伝いに庭坂駅方面に向かい、あるいは駅での取締りを恐れて福島まで歩き通そうとする者も大勢いた。
 事件の現場は奥羽山脈から福島盆地に下り降りる急勾配(31.3‰)・左回り急カーブ(半径300メートル)の難所であった、近くに人家はなかった。果たして事故か事件か、脱線転覆原因として考えられたのは、おおよそ次の諸点である。
運転ミス説
 …この区間の下り勾配では普段から時速45キロの低速運転を指示されており、さらに線路事情の悪さを考慮して実際の速度は25キロほどであったことを乗客も認めており、運転ミス(スピードの出し過ぎ)の可能性はあり得なかった。
保線工事手落ち説
 …事故の前々日に庭坂保線区で大々的な保線工事を行っており、その後始末に手落ちがあった可能性が疑われたが、その後も列車が何本も安全に通過していた。
人為的な線路破壊説
 …カーブ外側の継目板2枚、犬釘6本、ボルト4本が外されていた(検察・警察による現場検証)。これは紛れもない事件であり、その実行犯は果たして何者か。
列車強盗説
 …犯人は列車強盗だろうという漠然とした推測のまま捜査は数カ月で打ち切られた(警察側の捜査主任であった玉川正の後日談)。戦後の大量失業と物資欠乏の中で、列車転覆のドサクサに紛れて乗客の金品を奪おうとする事件が幾つかあり、その後もその種の事件が発生した。しかし、小説や劇映画の話であればともかく、実際には無理な筋書きに過ぎない。
国労内部犯行説
 …労組の中に入って捜査出来なかったのは残念だ(玉川の意味深長な後日談)。玉川は次の松川事件では国労福島・東芝松川工場労組を狙い撃ちにした。
謀略事件説
 …列車ダイヤの不自然な変更、本来はあり得ない長時間の闇米一斉捜索などは、庭坂事件を解くカギであり、こうした仕掛けは占領軍の関与なしには不可能である。捜査当局がこれらの点にはあえて触れたがらないのは、これこそが事件の真実だからに違いない。
 さて、トンネルの多い山脈越え用に特別に作られたSL4110型機関車の場合、機関車の煤煙が運転室を襲うのを避けるために、機関車を後向き(煙突が後になる)にした逆行運転が行われ、そのため先頭になった運転室が真っ先に湿田に突っ込む形になった。現場ではカーブ外(右)側のレールの継目板が外され、犬釘が抜かれ、レールが内側にずらされていた。このため、機関車と郵便車が右側の築堤下に脱線転覆し、小荷物車は築堤の横腹に線路と直角に脱線停止し、客車1両は左側に45度傾きながらも、たまたま電化工事のために立てたばかりの電柱に引っ掛かる形で転覆を免れ、これに続く1両も左に脱線していた。
 ついでながら、煙突の煤煙によるトンネル内での窒息などの事故は、山越え線区の乗務員を恐れさせていた。この事故の危険を軽減するには、良質炭の使用(燃焼効率がよくて火力も強く煙が少ない)、線路の改良(勾配の緩和)、牽引貨車の減車などが図られねばならない。かつて日本が、北朝鮮や満州の良質炭だけではなく、ベトナム・ホンゲイ炭(無煙炭)の確保にこだわった(1940.9.23日本軍がベトナム北部に進駐)のは、軍事上の必要(海上の艦船を敵軍に発見されにくくする)とともに、トンネルの多い日本の鉄道事情を考慮してのことであった。不良炭(劣等炭)の使用は、乗務員の作業負担を高めるだけではなく、煤煙の被害を大きくする。線路の改良、貨車の減車も機関車・乗務員の負担を軽減するはずであるが、国鉄当局は滅多なことでは実行しようとしなかった。これに関連して、北海道の新得(しんとく)駅(狩勝トンネルの東側のふもと)に発する1948年夏の職場離脱闘争が列島を縦断して九州にまで波及した。その訴えに呼応した一人が国労福島の阿部市次(車掌)であり、これによって阿部は職場を追われ(1948.8.24免職つまり解雇)て国労福島分会の書記となり、さらに49年秋には松川事件の被告にされた(1949.9.22逮捕)。
 それはさておき、当時の列車時刻表によれば、福島発米沢行きの下り第463貨物列車は、庭坂駅を21時50分に発車し、2つ先の板谷駅で問題の上り第402旅客列車とすれ違うことになっていた。ところが、第463貨物列車はおそらく期待せざる何らかの事情で福島駅を定刻には発車出来ず、56分遅れで庭坂駅を22時46分に発車し たため、もしも上り列車が予定通りに運転されていれば、現場付近の空き時間は20分に過ぎなくなり、これでは線路破壊の時間が明らかに足りなくなる。そこで、米沢からの上り列車の発車を意図的に遅らせるために、あえて長時間の闇米一斉捜索(通常なら列車の遅れを最小限にするために10~15分で終了させるはず)を行って時間をかせぎ、発車時刻を50分遅らせた。このため、結果として現場付近では改めて1時間ほどの空白時間が生じ、それを利用して線路破壊が行われた。闇米捜索のような警察による臨検は、各地のCIC(占領軍の対敵諜報部隊)の指揮下に警察が執行していた。つまり、実行犯はこの空白時間を事前に知っていた(知らされていた)はずであり、このダイヤ変更の権限はGHQのCTS(民間輸送局)またはRTO(鉄道輸送事務所)だけが握っていた。したがって、捜査当局が列車運行の不自然な乱れについてあえて疑いを挟もうとしなかったのはむしろ当然であった。
 なお、線路破壊の道具については、発見されず仕舞いであった。ただし、翌年8月17日に松川事件が発生した時、いち早く現場に現れた玉川(松川事件でも警察側の捜査主任)が犯行道具はバール、スパナに違いないと予言し、程なくして現場脇の水田のへりからバール(145センチ)1本と自在スパナ(24センチ)1挺が見つかるという不思議な出来事があった。そして、この予言の根拠について、玉川は前年の庭坂事件の経験をあげていた。玉川がこの庭坂事件の警察側捜査主任でもあったことを考えれば、玉川のこの言動は、彼が庭坂事件の犯行道具や真犯人について具体的な情報をあらかじめ得ていた可能性を示唆するものかも知れない。これとは別に、近年になって、福島市大笹生(おおざそう)地区で発見されたという大型のバール(長さ150センチ弱)が松川資料室に届けられた。発見場所は庭坂事件現場から10キロほどの北に当たり、飯坂温泉との中間点付近に位置する。この新たに届けられたバールのツメの下には、ヒシ型の中にNTをあしらったマークがついている。もしもこれが国鉄の備品であれば、NTは新潟鉄道局のイニシャルを連想させるが、確かに新潟鉄道局は、当時の庭坂駅を管轄区域にしていた。また、温泉地が実行犯の前進基地として利用されていた可能性については、その後の松川事件などについても指摘されている。
 線路破壊の実行犯については、当日の早朝に現場方面から庭坂駅の方向に足早に向かう不審な一団と遭遇して声を掛けたが返事がなかったという地元民の話もあったが、捜査には生かされずに無視された。他方では、事件当夜には多数の警官隊が非常警戒態勢を敷いていたという確かな情報もある。つまり、警察隊の出動と線路破壊の決行は対の関係にあり、これが事実であれば、警察当局は事件の発生をあらかじめ承知していたのであり、その出動の目的は、まずは実行犯の安全な作業と逃走を支援することであり、あわせて“不審者”の確保を図ることであったのかも知れない。さらに、この年の夏、共産党の行動を装った阿武隈川右岸(東側)の蓬莱発電所の爆破計画なるものが流布され、500人の警官隊が厳戒態勢を敷いた。この発電所は、松川事件現場の川向い(当時の立子山村→1955.7.10福島市に編入)にある。さらに、50年7月には、首都圏に電力を供給する猪苗代湖水系の小野川発電所と猪苗代第1発電所でも、共産党の名をかたった爆破計画が一部実行に移された。特に電産(日本電気産業労働組合の略称、電産協を単一組織化して1947.5.6結成)福島県支部猪苗代分会は、共産党の影響力が極めて強い組織であり、これを壊滅させようとする動きが急速に強まっていた。そして、電産猪苗代分会の取り潰し工作は、会社と電産労組が一体となって完遂されることになる。
 こうして見ると、庭坂事件はどうやら孤立した事件ではなく、問題の根はもっと深そうである。

4 庭坂事件と労働運動
 そこで、事件の舞台となった庭坂について改めて考えてみよう。
 まずは念のため、庭坂村の成立から福島市への編入に至る経過は次のようであった。
  1889.4.1「明治の大合併」により信夫郡庭坂村・李平(なしだいら)村が合併して庭坂村
  1954,3.31「昭和の大合併」により庭坂村・庭塚村が合併して大庭(おおにわ)村
  1956.9.30大庭村・野田村・水保村が合併して吾妻(あづま)村
  1962.11.1吾妻村が町制施行して吾妻町(まち)
  1968.6.1 吾妻町が福島市に編入されて消滅
 さて、国鉄の組織機構は本庁組織と地方組織に大別される。そして、地方の現場管理を統括するのが鉄道管理局または鉄道局であった。すなわち、
  1908.12.5鉄道院設置
   …鉄道管理局(東部・中部・西部・九州・北海道)
  1913.5.5鉄道院組織改正
   …鉄道管理局(東京・神戸・九州・北海道)
  1920.5.15鉄道省設置
   …鉄道局(東京・名古屋・神戸・門司・仙台・札幌)
  1943.11.1運輸逓信省設置
   …鉄道局(東京・名古屋・大阪・広島・門司・新潟・仙台・札幌・樺太)
  1945.5.19運輸省設置 →1946.3.15鉄道局組織改正
   …鉄道局(東京・名古屋・大阪・広島・四国・門司・新潟・仙台・札幌)
  1949.6.1日本国有鉄道発足 …初代総裁下山定則 →7.5下山事件(失踪・怪死)
   …鉄道局(東京・名古屋・大阪・広島・四国・門司・新潟・仙台・札幌)
  1950.8.1地方組織改正
   …鉄道管理局(釧路・旭川・札幌・青函・盛岡・秋田・仙台・新潟・高崎・水戸・千葉・東京・長野・静岡・名古屋・金沢・大阪・天王寺・福知山・米子・岡山・広島・四国・門司・大分・熊本・鹿児島)
 つまり、敗戦後1946年から1950年夏までの間、全国の国鉄は同じ名称の9つの鉄道局によって管理され、その下に管理部と工機部(1949.6.1現在では49管理部、27工機部)が置かれていた。東北地方では、奥羽山脈の東側(東北線側)が仙台鉄道局(仙鉄局)、西側(奥羽線側)が新潟鉄道局(新鉄局)であったが、例外的に奥羽本線の南端部分(福島県内)だけは新鉄局管内になっていた。このため、奥羽山脈横断の西口にあたる米沢と東口にあたる庭坂には、それぞれ新鉄局山形管理部の機関区(機関車・乗務員を管理)が置かれていた。このことが、わずかに7キロ(福島~庭坂間)を挟んで、福島機関区(仙鉄局管内)とは別の庭坂機関区(新鉄局管内)が置かれた理由である。庭坂~米沢間は40キロあり、この間の標高は、庭坂駅131メートル、ほぼ中間点に位置する峠駅は622メートル、米沢駅は251メートルである。その結果、山脈越えの標高差は、庭坂~峠間が491メートル、米沢~峠間が371メートルであり、改めてこの区間が大変な難所であることが分かる。
 なお、東北本線では、1916.9.10永井川(ながいがわ)信号場が設置され、金谷川までの急勾配(25‰)を乗り切るために補助機関車の増結を行っていた。その後、1960.3.1白河~福島間が交流電化されると、蒸気機関車の役割は終了する。そして、1961.4.5永井川~金谷川間が複線化された時、増設された上り線が(下り線と並行にではなく)大きく東側を迂回するように敷設されたのは、この急勾配を少しでも緩和するためであった(下りは25‰、上りは20‰)。さらに、永井川周辺の人口増加に対応して、永井川信号場は1962.4.5南福島駅に昇格した。
 さて、戦後は国鉄職場でも労働組合を結成する動きが全国的に広がったが、これに危機感を抱いた国鉄当局は、職場長を中心とするエセ労働組合を組織して、労働者の押え込みを図ろうとした。しかし、この動きを乗り越える力を担ったのは青年層であった。その典型は仙鉄局福島管理部の労働者たちであり、その突出した成長が後に松川事件で狙われることになる。そして、国鉄の各職場での組合結成が広がる中から、9鉄道局に対応する9つの地方連合会(地連)が結成され、それを全国的に緩やかに束ねる形で、1946.2.27国鉄労働組合総連合会(国鉄総連)が結成された。国鉄総連は国鉄全従業員の実に96%にあたる50万人余りを組織したが、46年夏には早速の試練に見舞われた。すなわち、戦時中に膨らんだ従業員の縮小を目指して提起された7.5万人(年少者・女性が中心)の首切り提案に対する9・15ゼネストの是非を巡って、ストを支持する東京・新潟・仙台・札幌の東地連とストに反対する大阪・広島・四国・門司の西地連が激しく対立(名古屋は中立的)して、国鉄総連は事実上の分裂状態におちいった。ただし、首切り問題は、当局がスト前日に提案を撤回したため、ひとまず決着した。しかし、言わばこの時の積み残しが49年夏の10万人という大量首切りの遠因となった。他方で、国鉄総連は、1947.2.1の2・1ゼネスト(直前中止)を経て、6.5単一組織の国鉄労働組合(国労)に発展した。
 庭坂機関区では、機関区長(本来は団体交渉の相手となるべき立場)を委員長とする山形管理部運転従業員労働組合に繋がるタテ線組合(職能別組合)が、何らの手続きもなしに忽然として結成宣言された。しかし、労働組合としての具体的な活動方針や要求提起もなされないままに、組織は一路有名無実化していかざるを得なかった。これに対して、1946.3庭坂機関区従業員労働組合が結成され、当局に要求書を提出して団体交渉を行うなど、山形管理部内での主導権を強めていった。彼らがともかくも労働組合らしい道に進み得たのは、福島県における労働運動の全県的な結集を目指す左右の対抗的潮流の動きに直接触れる中で、自らが進むべき進路を選択する機会を得たことの結果であった。このように、極めて穏健といわれた新鉄局の労働組合の中で、庭坂機関区の労働組合は確かに最も実質を備えていた。そして、この力を押さえ込もうとしたのが庭坂事件であったのかも知れない。
 事件が発生すると、庭坂一帯の共産党員・支持者・国労組合員らが徹底的に捜査された。その結果、心身の安定を失するなどの実害を受けた者、あるいは退職に至る者もいた。この間に所属の異なる福島の国鉄労働者が1人検挙されたのは、事件を本命の福島に結びつける狙いがあったからかも知れないが、事件は結局迷宮入りで放置された。

5 庭坂事件の後にくるもの
 繰り返すまでもなく、奥羽山脈を越える福島~米沢間は奥羽本線随一の難所であった。そこで、1946.11から電化工事が開始され、49.4.1に開通した。これに伴って、奥羽本線の庭坂~関根間が新鉄局山形管理部から仙鉄局福島管理部に移管され、庭坂機関区も福島駅近くに移転した。このため、従来の福島機関区は福島第1機関区(東北本線を分担)に、庭坂機関区は福島第2機関区(奥羽本線=電化部門を分担)に改称された(→その後、東北本線の1960.3.1電化開通を前にして、福島第1・第2機関区は1959.12福島機関区として統合)。ただし、蒸気機関車も暫時運行されたため、福島~米沢間の直流電化の全面実施は49.4.24からということになる。また、庭坂などの労働組合も同時に国労福島支部(福島管理部管内を組織)に組み入れられることになった。
 そして、1949.6.1日本国有鉄道法(国鉄法 →国鉄を公共企業体日本国有鉄道に改組)・行政機関職員定員法(定員法 →公共企業体にも適用)が施行され、庭坂の国鉄労働者たちもいよいよ10万人首切り問題の渦中に巻き込まれていくことになる。特に、庭坂駅の駅務員であった高橋晴雄は、1943.3.6雪の中の庭坂駅構内で誘導中の機関車から転落して駅ホームと機関車の間に挟まれ、歩行困難などの重傷と後遺症を負っていた。彼は組合組織の統合以前から福島支部にも度々顔を出していたこともあり、統合後には福島分会の執行委員にも選ばれていた。その彼が直後の松川事件で現場実行者の一人にされた(1949.9.22逮捕)。しかし、彼が起訴事実のような条件で現場を往復し、線路破壊に参加出来ないことは、治療に当たった3つの医療機関が等しく鑑定していた。それにも拘わらず、第一審長尾信裁判長は受け取った鑑定書を隠したままで、1950.12.6第一審判決で全員有罪(高橋には無期懲役)を言い渡した。長尾裁判長はこうして松川権力犯罪事件の一端を担い、翌年3月、最高裁はその論功行賞として、長尾をあえて定員満杯の名古屋高裁判事に抜擢するという異例の人事を行った。
 ともあれ、奥羽本線の電化は、難儀な山越えを解消する一方で、機関車乗務員の配置転換を必要とした。そして、福島への移転を機会に、第2機関区の定員350人が160人に減員され、広域異動や職種転換が実施されたが、これは来るべき大幅人員整理のための余剰人員となり得るものであった。この時期、国労を最有力組合とする産別会議(全日本産業別労働組合会議の略称)は、職場闘争・地域闘争の強化に加えて、地方自治体までも動かす産業防衛闘争の展開を指示していた。こうした中で、1949.6.30福島県議会の7月定例議会が開会し、これに向けて各労組・団体が首切り・合理化反対などの要請行動を組織した。これを事件化したのが県会赤旗事件であり、それが松川事件の筋書きに利用されることになる。
 その松川事件の現場には、翌(1950)年春彼岸に、福島第1機関区(旧福島機関区)職員一同の名で「殉職之碑」が建てられた。その文面には、戦後勃興した過激思想が事件の原因であるかのような一文が含まれており、それが遺族と事件被告の間のわだかまりの原因の一つにもなってきた。そして、庭坂事件の現場にも「殉職之碑」が建てられている。発起人は千秋信雄庭坂機関区長、実務は紺野健一郎・佐藤雄若・後藤久男の3機関士(千秋区長による指名)が担当した。殉職碑に使用した御影石の原石は、地元(庭塚)の石工茂木金兵衛の情報によって赤岩~板谷間のはるか下を流れる松川から見つけて運び上げたものであり、原石の研磨は(経費節減の意味も込めて)乗務員たちが担当し、加工(彫り込み)は茂木が行った。また、土台石は事故現場の水田で機関車が激突した大石を掘り出して整えたものであった。建立の費用は庭坂機関区が全額を支払い、除幕式は1948年夏ごろ(月日不詳)に執り行われた。その碑文は縦書き、ほとんどが漢字であるが、ここでは横書きに直して紹介する。すなわち、
  昭和23年4月27日午前0時4分 第402列車運転中 脱線転覆の為職に殉ず
                      機関士  管野弘道 行年27歳
                      機関助士 三浦忠男    21歳
                      技 工  山岸 孝    19歳
                  庭坂村長 菅野聖瑞 謹書
 さらに、1997.7,27関係有志によって犠牲者の50回忌法要が営まれ、新たに「殉職之碑誌」が建立された。
  昭和23年 西暦1948年4月27日 青森発上野行急行旅客列車が買出人等1200余名を乗せて走行中 右の電柱附近で脱線し機関車は転覆して道床の上から約30米滑り落ち 巨大な岩石に激突して大破し その破片が執務中の3名の全身を直撃したため 生命を断れて殉職しました
  事故の原因は今だに解明されておりません
    発起人  9名(氏名略)
         平成9年9月 紺野健一郎 謹書

6 おわりに
 1984年夏以来、長年にわたって松川事件の本格的な資料収集に関わってきた筆者は、ある機会に殉職機関士:管野弘道氏の4歳下の妹さんと知り合うことになり、その後も今日まで、年賀状を交換するなどの丁寧なお付き合いを重ねてきた。その結果、彼女が大切に保存していた一切の関係資料(葬儀の際の諸資料、各種の手紙類など)をお預かりすることになり、これに庭坂事件を報じる各種の新聞・雑誌・資料などを加えて、「庭坂事件」のファイルにまとめることが出来た。それが松川資料室の一角に収められていることを、この機会にご報告しておきたい。
 そして、文字どおり脱線だらけの拙い本稿をつうじて、庭坂事件の存在が少しでも世に知られ、新たな資料の収集と庭坂事件の一層の解明に多少なりとも役立つことになれば、筆者にとっては望外の喜びである。

〈付記〉本稿は『福島大学研究年報 第7集』(2012年1月)のために執筆した。
    掲載誌(横2段組み)では、原稿の一部に省略と組み替えを施した。
    本稿では誤記・誤植を訂正したほか、脱落箇所(2ヵ所)を補った。