資料室便り

松川事件無罪確定50周年によせて 

松川事件無罪確定50周年によせて 

                                            伊 部 正 之

  はじめに

 1963年9月に松川事件の全員無罪が確定してから、今年(2013年)はその50周年にあたる。しかし、時の流れとともに、松川事件についてよく知らないという世代が増えるのは、むしろやむを得ないことかも知れない。そこでこの機会に、改めて松川事件について考えていただくことにしたい。

1 松川事件とはどんな事件であったか …汽車転覆致死被告事件

 1949年8月17日午前3時9分(夏時間のため現在なら午前2時9分)ごろ、国鉄東北本線の金谷川~松川間(現在は福島市南部)で、上り普通旅客列車が脱線転覆し、先頭蒸気機関車の乗務員3人が熱湯を浴びて死亡した。これが松川事件である。

 現場は右回りのカーブ地点で、何者かによってレールの継目板(つぎめいた)(前後のレールをつなぐ器具)が取り外され、犬釘(レールを枕木に固定するもの)が抜き取られていた。そのため、進行してきた機関車の動輪がまず外側(左側)のレール1本を跳ね飛ばしたうえ、走行のためのレールを失った先頭機関車が線路とほぼ直角に脱線して仰向けに転覆し、これに続く炭水車、2両の荷物車、郵便車も機関車に横付けする形で大きく脱線し、後続の客車2両は脱線しながらも何とか転覆を免れた状態で線路上にとどまっていた。乗客(9両の客車に630人ほどが乗車)に大禍が及ばなかったのは、当時のこのような列車編成のおかげであったといえよう。

 松川事件は、国鉄10万人首切り問題の渦中で7月に相次いで発生した下山事件(国鉄総裁失踪怪死事件)や三鷹事件(無人電車暴走致死事件)につづく国鉄線路上の第3のより悪質な事件として、世上を恐怖の渦に巻き込んだ。この事件の容疑者として逮捕・起訴されたのは、国労福島支部関係10人と東芝松川工場労組関係10人であり、その多くが組合活動家であり、共産党員であった。

 松川事件の第一審は12月5日から福島地裁で始まった。検察側の冒頭陳述によると、事件の概要は次の通りである。①事件の概要(上述)。②犯行の動機は労働活動の取り締まりおよび職場馘首(かくしゅ)への不満、より直接具体的には同僚組合幹部の逮捕に対する憤激である。因みに、12日朝には国労福島支部副委員長、13日朝には松川工場労組執行委員が逮捕されていた。③犯行までの手順は8月12~16日に11回におよぶ順次共謀(一連の共謀が前後関係で繋がっている)が行われ、このうち福島駅近くにあった国労組合事務所での2回の連絡謀議(2つの労組を結び付ける謀議)において、13日に計画の基本、15日に計画の細部が決定された。④実行行為者は国鉄側の3人と東芝側の2人であり、5人は現場付近で落ち合って線路破壊を実行した。⑥犯行道具(バール1本、自在スパナ1挺)は、東芝側の3青年が松川駅線路班倉庫から盗み出して、東芝側の2人が現場に持参した。⑦線路破壊は17日午前2時ごろから20分ほどで行われた。

 こうして、被告たちは、全員が共同謀議に加わった共謀共同正犯とされ、その中の5人が実行行為、3人が器物窃取を行ったことにされた。このため、現場実行者だけではなく、謀議参加者も等しく罪に問えることになった。検察側が狙う本命被告たちは、ただ謀議に参加していたという理由だけで死刑・無期懲役を求刑された。

 しかし、こうした起訴事実はすべて全く架空のものであることが、やがて明らかになる。

2 松川裁判では何が争われたか …事実認定と順次共謀は総崩れ

 松川裁判には様々な争点があるが、ここでは、幾つかの代表的な事例をごく簡単に紹介するだけにとどめざるを得ない。

 犯行道具とされたバール(145センチ)1本と自在スパナ(24センチ)1挺が、捜査指揮官の神がかり的な予言通り、事件現場脇の水田からすぐに発見され、それは松川駅の線路班倉庫から盗まれたものとされた。しかし、バールにはGHQ(アメリカ軍)の持ち物を示すY字(横浜のイニシャル)が刻まれており、自在スパナには使用の痕跡さえなかった。保線の現場では、自在スパナではなく、専用の片口スパナ〈61センチ〉を使用しており、継目板のボルトを抜くのに必要なハンマーは発見されなかった。

 現場では左側のレールがほぼ真っ直ぐに跳ね飛んでいた。これはレールの両端の継目板が完全に取り外されていたことを意味する。ところが、それを可能にするには道具も時間も足らないため、検察側は手前のみの取り外しで押し切ろうとした。しかし、どうにも辻褄が合わず、第二審になって、検察側はもう1組の継目板(実物かどうかは怪しい)をしぶしぶ提出せざるを得なかった。

 検察側は8月13日に第1回の連絡謀議を設定した。ところが、そこで指導的な発言をしたはずの斎藤千(国鉄側被告)は、その時刻に郡山市警察署に前日逮捕された副委員長への差し入れに行っていた。その事実を記した来場者芳名簿の当日分を検察側が抜き取り、隠し通していた。これが陽の目を見るのは、後の国家賠償裁判になってからである。

 東芝松川工場事務課長補佐が記した「諏訪メモ」には、連絡謀議に参加したはずの佐藤一(東芝労連のオルグとして松川労組支援のために来松)が、13日も15日も松川工場にいたことが記されていた。これを知った検察側は「諏訪メモ」を押収して隠し通すとともに、連絡謀議の時間をずらす(太田自白の変更)などの小細工を行った。しかし、度重なる自白の変更は、自白の任意性・信用性を著しく疑わせる結果に繋がった。その後、この「諏訪メモ」は最高裁によって提出を命じられ、口頭弁論(58年11月)の場で回覧された。

 この種の事例は枚挙にいとまがないが、その総括として、冒頭陳述で主張された順次共謀と各審級の判決との関係をみれば、問題の白黒は余りのも明白である。第一審判決は、順次共謀のうち飛び飛びに3回分を否定しつつも、とにかく全員有罪(死刑5、無期懲役5など)の判決を下した。これは1910年の大逆事件以来の大量死刑判決であった。

 第二審判決では、新たに前半の5回分(13日連絡謀議を含む)を否定しつつも、15日連絡謀議を勝手な推認によって救い出し、事件・犯行の成立をこじつけた。こうして第二審判決は13日連絡謀議に関わる3人を無罪とする一方で、他の17人は有罪(死刑4、無期懲役2など)にした。順次共謀が事実上否定されたにも拘わらず、検察側は17人の有罪をよしとして上告しなかった。

 つづく第1次最高裁では、「諏訪メモ」の登場などによって15日連絡謀議とそれを支える太田自白・赤間自白の信用性が強く疑われ、原審破棄・高裁差戻しとなった。その差戻審では、裁判長の勧告によって、これまで検察側が隠してきた被告たちの公判前供述調書を含む1650通の手持ち文書が提出された。こうして、差戻審判決は、「球玉の真実」として17被告全員の無罪を言い渡した。しかし、検察側はこれに承服せず、あえて再上告したが、勝ち目のない再上告は、法曹界から「乱上告」の批判を浴びた。そして63年9月12日の再上告審判決は、検察側の上告を棄却し、被告の無罪を14年ぶりに確定させた。しかし、15年という公訴時効の成立は目前であり、真犯人追及の責めは意図的に放棄された。

 なお、松川裁判が決着した後、時効成立を目前にした64年5月には、元の被告と家族が国を相手取って国家賠償請求の民事裁判を起こした。その結果、元被告たちの無実が改めて認められるとともに、捜査・逮捕・起訴・裁判追行の全てが違法であったとして、国に賠償の支払いを命じた。松川国賠裁判は第二審で決着した(国が上告を断念)。

 ついでながら、松川裁判に関わった裁判長のうち、有罪判決裁判長は異例の出世を遂げ、逆に無罪判決裁判長は見せしめ左遷人事を受けることになった。すなわち、全員有罪の一審裁判長は、判決後ほどなくして定員満杯の名古屋高裁判事に大抜擢され、二審の裁判長は秋田地裁所長になった。一審・二審とも判決日が延期された。後日になってから、彼らは占領軍による圧力・脅迫があったことを認めた。他方では、仙台高裁差戻審で全員無罪を判決した門田実裁判長は、高裁の刑事部統括判事から、あえて福岡家庭裁判所長に回された。

 また、松川事件の捜査を指揮した国家地方警察福島県本部隊長(現在の県警本部長)は警察庁長官に出世し、捜査のための応援検事として起訴前の被告たちに大変な苦痛を強いた辻辰三郎は検事総長に昇りつめ、第1次最高裁で立会検事を務めた井本大吉(戦前は思想検事)も検事総長になった。つまり、世紀の権力犯罪を担った人たちは、一切責任を問われずに済まされたのである。また、捜査で辣腕(らつわん)を振るった玉川正(福島県本部刑事部捜査課次席)は特高警察の経歴を隠さない人物であった。同じく武田辰雄(福島地区警察署巡査部長)も特高あがりであり、彼らはその経歴を被告たちの脅しに使って恥じない卑劣漢たちであった。

3 松川事件の背景 …20人はなぜ被告に選ばれたのか

 1949年当時の日本は戦後復興政策が行き詰まり、財政破綻(大赤字)とインフレ、失業と労働運動の激化に直面していた。日本を事実上単独占領していたアメリカは、日本を極東の軍事拠点(不沈空母)にすべく、対日占領政策の転換に着手した。こうして、財政立て直し(超均衡予算の実施)のために、公務員の大幅削減と価格差補給金(高い生産原価と安い販売価格の逆ザヤを国家財政で補填(ほてん))の廃止を断行した。その結果、デフレ不況、新たな首切り・合理化の嵐が吹き荒れた。

 公務員の削減(人員整理つまり首切り)は行政機関職員定員法の制定によって、有無を言わさず実施に移され、それは公共企業体に移行(非公務員化)したばかりの国鉄にも適用された。他方では、不況(市場の縮小と価格低迷)の下で独立採算を強いられた民間企業による企業整備(工場の再編と大幅人員削減)をめぐって、民間労組もまた困難な闘いを強いられていく。こうした状況の中で、労働争議の最前線に立ったのが、官公労組を牽引(けんいん)する国鉄労組(国労)と民間最強の東芝労連であった。

 国鉄では7月からいよいよ10万人首切りが始まり、7月4日に3万700人の第1次首切り名簿が発表されると、翌5日には下山定則総裁が出勤途上に失踪し、6日未明になって常磐線綾瀬駅手前の線路上で轢断(れきだん)死体となって発見された(下山事件)。マスコミ(新聞)はあげて国労・共産党犯人説の大キャンペーンをはり、国労の首切り反対闘争は不発に追い込まれた。これに味をしめた国鉄当局が12日から6万3000人にのぼる第2次首切り名簿を発表すると、15日夜には中央線三鷹駅構内の車庫から無人電車が発進し、死者6人を出す大惨事となった(三鷹事件)。こうして、国労の闘いはまたしても挫折を余儀なくされ、国鉄の人員整理は7月中に事実上決着する。国労潰しは、他の官公労組の闘争力を削(そ)ぐ効果が見込めるだけではなく、中国での足場を回復するための大陸反攻に必要な国鉄の利用(物資・兵員の輸送)に対する抵抗勢力を排除しておくためにも有効であった。実際、50年6月に朝鮮戦争が始まると、国鉄は軍事輸送に動員されることになる。

 ところで、下山・三鷹事件は、東芝争議にも大いに利用され、会社側はこの2つの事件に合わせて残存工場(つまり主力工場)での大量首切り(20%)の発表と通知を行った。その結果、残存工場の争議は7月中にメドがつき、争議の焦点は処分工場(地方・疎開工場)の攻防に移っていく。東芝争議の結果は、他社の動向にも波及するはずであった。

 かくして、8月17日に松川事件が発生した。福島では、国労福島支部(国労の最強部隊)と東芝松川工場労組(東芝労連傘下)が近接して積極的に活動していた。国労福島支部では、7月の首切り攻撃で多くの幹部・活動家が狙い打ちされたにも拘わらず、依然として統一左派執行部が機能しており、地域の労働運動を牽引していた。また、もともとは戦時の疎開工場として1944年7月に開設されていた東芝松川工場では、工場側が8月12日に工場切り離し(関連会社化)と従業員の1割首切りを通告し、これに反対する組合側は16日夜に臨時大会を開いて、17日午前8時からの24時間ストの決行を決定した。その矢先に、工場の北わずか1キロ半の地点で松川事件が発生した。

4 被告と裁判を救い出した松川運動 …世界の社会運動の金字塔

 松川事件の被告たちは、絶望的な孤立状態の中で裁判に臨むことになった。この裁判に勝つためには、何よりもまず被告たちが内なる弱さや矛盾を乗り越えて団結しなければならなかった。そこで被告たちは、獄内環境の改善を求め、健康増進に励み、学習の強化に努めた。また、獄外に働きかけるために、通信制限の枠を押しひろげ、制限そのものの撤廃を実現させていった。獄中からの発信数は15万通を超えた。

 働き手を奪われた家族たちは、世間から孤立し、生活の不安を抱えて苦しむことになる。そうした中でも、弁護士や救援活動家の援助のもとで、松川事件被告家族会が早々に結成された。第一審公判が始まると、家族会の人たちは、公判傍聴、面会・差入れのほかにも、必死の思いで街頭に立って無実を訴え、やがて訴えの地を拡大していった。

 弾圧犠牲者の救援を旨とする労農救援会は、第一審の開始を前にして中央本部に三鷹・松川事件対策委員会を設置するとともに、さらに救援会福島支部を結成した。しかし、彼らの献身的な努力にも拘わらず、被告支援と真相普及の活動はなかなか広がらず、一審での全員有罪判決は被告の立場をさらに苦しめることになる。

 裁判が第二審に移ると、救援会は松川事件対策東北地方協議会(東北松対)と救援会宮城県本部を設置した。獄内の被告たちは、弁護士や文化人への働きかけを意識的・組織的に強め始めた。同時に、第一審に敗れた救援運動の内部でも、これまでこだわってきた「無実の愛国者を救え」とか「売国裁判を打ち破れ」などという独善的な訴えを克服して、広範な一般国民も賛成し得る「公正裁判要求」を掲げるようになっていく。

 また、文化人の中には、もともと松川事件・松川裁判の内容に疑問を抱く人たちがいた。作家・松田解子(ときこ)の献身的な働きによって出版された『真実は壁を透して』は、作家・広津和郎ら多くの文化人に衝撃を与えた。さらに、きわめて不可解な一審判決に対して、戦前回帰(逆コース)の危険な傾向を感じ取る文化人が徐々に広がり始めた。彼らは文筆などの専門分野で力を発揮するとともに、現地調査や講演活動などを通じて、動きの鈍っていた労働運動の再生にも影響力を発揮し始めた。被告の保釈が徐々に広がり、保釈被告と家族会が連携して、労組への働きかけや全国オルグを強化していった。こうして、第二審判決が近づく中で、日教組・国労などの有力組合の大会が公正裁判要請・調査団派遣を決議し、総評大会が公正裁判要請を決議するに至った。

 しかし、すでに見たように、第二審判決の基本は有罪判決であった。この困難の中から、後に「松川運動」と総称されることになる大衆的な裁判運動・救援運動が形成され、広がっていくことになる。

 すなわち、裁判が最高裁に移るとともに、救援運動に新しい芽が生まれてきた。第二審判決による重ねての有罪判決に危機感を抱いた有志が結成した「伊東市松川守る会」を端緒として、大衆的な草の根の「守る会」組織が広がり始める。「守る会」はその後全国津々浦々に広がり、組織数1300以上、会員数100万人以上を記録する。

 広津和郎は『中央公論』に第二審判決批判の連載を4年半にわたって続け、世論に大きな影響を与えた。そのほか、松川事件を題材にした演劇が様々に上演されるようになった。膨大な分量の上告趣意書を書き上げた被告たちは、手紙による獄外への訴えをさらに強化した。春闘を本格化させつつあった総評は、松川の保釈被告を春闘オルグの名目で全国に派遣して支援した。被告クロ説で固まっていたマスコミにも見直しと軌道修正の動きが出てきた。

 1958年3月、満を持して松川事件対策協議会(松対協、広津和郎会長)が結成され、これに前後して、都道府県レベルの松対協が次々に結成されていく。松対協には、総評・国労・日教組などの主要な労働団体や民主的な諸団体と有志個人が結集し、組織性と大衆性を兼ね備えた裁判批判と被告救援の運動を束ねるセンターの役割を担っていく。総評や大単産(産業別労働組合組織)の松対協への結集は、裁判の節目に向って組織された松川大行進などの目に見える大きな動きを可能にするとともに、傘下の地方組織を松川運動に動員する役割を果たした。

 こうして、片や大組織の大きな後ろ盾、片や大衆的な個人の結集と創意工夫の発揮の上に、権力総がかりの松川裁判はついに打ち破られた。松川運動の形成と勝利は、まさに世界の社会運動の金字塔として特筆されるべき成果を収めた。

 松川事件無罪確定判決の1周年にあたる1964年9月12日に、事件現場を見下ろす丘の上に「松川の塔」(松川勝利の記念塔)が建立された。その碑文は松川運動の発展と無罪の実現に不抜の役割を担った広津和郎が起草したものであった。

 こうした松川運動の成果があったからこそ、引き続く国家賠償裁判の勝利も可能になった。弾圧事件に勝利する鉄則は、被告・弁護団・救援組織の三位一体的な団結である。松川運動は十分な内実を備えることが出来たが故に、内部分裂を経験せずに目的を全うすることが出来た。「松川のように闘おう」と語り継がれる所以である。

                                                      (いべ・まさゆき  福島大学松川資料室)

 〈付記〉

 本稿は『治安維持法と現代』No.26(2013年秋期号、2013.10.31発行)に掲載されたものに、後日若干の補正を施したものである。なお、同誌は治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟が編集・発行する情報誌である。