資料室便り

連載番外編 鈴木信さんを偲んで       

連載番外編 鈴木信さんを偲んで          

                                                                                      伊部 正之(2013.7.25)

はじめに

 松川事件の代表的な生き証人であった鈴木信さんが、本年(2013年)7月2日に亡くなりました。享年93歳でした。謹んでご冥福をお祈り申し上げます。

 なお、鈴木信さんのお名前は、戸籍上はマコトさんですが、周囲からはむしろ親しみと敬愛の念を込めて、「シンさん」と呼ばれてきました。そこでこの機会に、はなはだ僭越ながら、鈴木信(シン)さんの偉大な生涯の一端をご紹介させていただくことにします。

 1 若き日の鈴木信さん

 鈴木信さんは、1920年2月28日、山形県米沢市で生まれました。生家は代々が医者の家系で、信さんは4男、9人兄弟の8番目でした。信さんは5歳の時に実母を亡くしたため、小学校入学まで長姉〈軍人の妻、現在の静岡県三島市〉の許で過ごします。その後、信さん自身は兵役を免れましたが、長兄・次兄が戦死、長姉・次姉の夫も戦死したため、2人の姉と子どもたちが一時期信さん宅に同居することになります。

 話は前後しますが、信さんは、米沢藩校の流れをくむ旧制の興譲館(こうじょうかん)中学校に入学します。そこで信さんは、理不尽な学校管理に対して、授業放棄して山に籠(こも)るという抗議行動の中心人物となりました。剛気で正義感の塊のような信さんの気性の片鱗は、早くもこの時期から発揮されていたのですね。

 37年3月に中学校を卒業した信さんは、親が勧める医学への道を断って、同年8月、国鉄に入ります。振り出しは松川駅勤務でしたが、何やら因縁めいた話です。その後、39年1月、信さんは福島自動車区に転勤しますが、津島駅(双葉郡津島村 →浪江町津島)に勤務中にバス事故で左腕を負傷し、これが元で兵役を免れました。災い転じて福となす、ということでしょうか。

 当時の中卒は現在の大卒にも劣らぬ存在のため、信さんはその後福島管理部に移り、国鉄青年寮(独身者200人程を収容)を管理する寮長になりました。

 ここに米穀商をしていた加藤卯作さんが登場します。すでに太平洋戦争が始まり、42年には食糧管理法が制定・施行されます。そのため、卯作さんの米穀商は仕事がなくなり、青年寮の賄いをしていた兄(魚屋)を手伝うことになります。そして、青年寮に出入りする卯作さんが信さんを「しっかり者」と見込むのには、何の不思議もありませんでした。

 卯作さん・トクさん夫婦には4人の子供(長男とその下に3女)がいました。長女の八重子さん(1921.8.1生まれ)は、福島市立家政女学校を卒業した才媛でした。卯作さんは、持ち込まれる縁談を断り、自ら信さんに愛娘を紹介します。信さんにとっても、上品で控え目、美貌の八重子さんに異存があろうはずがありません。こうして話はトントン拍子にまとまり、43年10月3日、2人はめでたく結婚し、長男(45.1.3)、次男(47.9.25)が誕生します。卯作さん夫婦からすれば、病弱な長男ではなく、この娘夫婦に老後を託したいという思いもあったようですが、実際その願いが叶えられます。余談になりますが、後に信さんの留守家族をモデルにして制作された劇映画「手をつないで」(新藤兼人作、1960年)には、トクさんに相当する同居のおバァさんが登場します。

2 組合活動家・共産党員としての信さん

 敗戦後、全国的に労働運動の波が広がります。そこで、ご多分に洩れず、国鉄の職場でも駅長・助役を先兵とする上からの御用組合作りが始まりました。これに対して、信さんを先頭とする青年たちは、学習と討論を通じて力を貯え、組合運動の中心に躍り出ていきます。当初は職場単位に結成された組合組織は、紆余曲折を経ながら、全国的な組織整備とも関連して、国労福島支部に成長し、そこで信さんは、福島支部執行委員、福島県労働組合会議(県労会議)副議長になります。

 48年4月、信さんは福島支部委員長に就任するとともに、7月には賃金要求などを掲げて無届けの実力行使を決行しました。これがGHQの怒りを誘い、7月31日の政令201号(公務員の組合活動の大幅制限)につながります。後に信さんは、この無届けストが翌年の松川事件で狙われる重要な背景になった、と述懐しています。また、北海道新得機関区から始まった職場離脱闘争には、福島でも阿部市次さんら3人が自主的に呼応して首を切られます。この闘争戦術は、結果として組合組織に打撃(活動家の喪失、組合の孤立化など)を与え、内部対立を激化させます。そのため、信さんは責任をとって10月に支部委員長を辞任し、後任には武田久さんが就任します。しかし、大量の人員整理が迫る中、49年4月、信さんは請われて福島分会(福島支部の中心部隊)の委員長として再び先頭に立つことになります。

 他方では、信さんは47年4月に共産党に入党し、直ちに4月の県議会議員選挙に福島市選挙区から共産党公認で立候補します。結果は当選には至りませんでしたが、「ビリではなかった」ようです。こうして信さんは、有能な組合活動家として、さらには公然の共産党員として頭角を現していきます。また、福島市議会議員選挙には、斎藤千さんが何故か「無所属」を名乗って立候補しています。ともあれ、信さんは国鉄職場を中心に果敢な入党工作を展開し、共産党と労働組合の強化に邁進(まいしん)します。職場オルグの中で、アカ攻撃への対処方法を問われた信さんは、「共産党員は本当のアカだからアカ攻撃はない。だから全員が入党してアカになれば、アカ攻撃はできなくなる」と説きました。こうして、別室に用意した入党相談所には長蛇の列ができたとのことでした。その結果、GHQの見るところ、福島の共産党は東北地方随一の勢力に成長し、国鉄・電力・石炭などの重要基幹産業における活発な労働運動と結びついて、無視し難い存在となっていきました。このため、警察も占領軍も、福島には特別に手厚い要員配置を実施しました。

 そして、49年7月4日、いよいよ国鉄の第1次首切り名簿が通告されます。正直言って、この首切りは鉄道運行の現場(現業部門)が中心であり、信さんのような管理部要員は首をスボめていれば遣り過ごせる可能性があり、信さんもこの第1次首切り名簿には含まれていませんでした。しかし、首切り名簿の発表に抗議して管理部に押しかける国鉄内外の労働者の先頭に立って、信さんは管理部長に首切り返上の確約を迫ります。こうして、7日には信さんも追加解雇され、さらに、この管理部での要請行動を理由にして、21日に逮捕・起訴されます。これが福島管理部(福管)事件です。同じ7日にはいわゆる伊達駅事件(物資横領追及事件)が起き、16日には第2次人員整理が発表され、統一左派執行部はついに民同系によって追い落とされます。

3 松川事件被告となった信さん

 そして、8月17日未明に金谷川~松川間で松川事件が発生し、信さんは9月22日に第1次検挙者の一人として逮捕されます。信さん(娘婿)が逮捕されたことについて、卯作さん夫婦は、その後も一貫して無実を信じ、全く揺らぐことはありませんでした。

 全く身に覚えのない信さんにとっては、「すぐ帰る 夏シャツ1枚 家あとに」というのが、逮捕時の偽らざる心境でした。しかし、「すぐ帰る」はずの信さんは、その後59年7月1日に保釈されるまで、実に9年9か月を超える長期勾留に苦しめられます。この事件で逮捕・起訴されたのは、国労関係10人、東芝松川関係10人、合わせて20人にのぼりました。

 この20人は、2種類の扱いを受けます。つまり、自白組と否認組の使い分けです。事件のあらすじは、自白組のウソの自白によって組み立てられていきました。他方で、信さんは取調べに対して口は利いた(黙否ではない)ものの、犯罪事実は認めなかったという意味では否認組でした。信さんは逮捕の誤解を解くために話したはずですが、結果としてそれがアリバイ潰しや架空話の設定に悪用されたことも事実でした。こうして検察側は、信さんたちの記憶が曖昧(あいまい)だった8月13日と15日に、福島駅近くの国労組合事務所で連絡謀議(国労・松川が列車転覆を謀議)を設定し、信さんも間違いなくそこに参加していたことにしました。信さんは、ただ共同謀議に参加していたという理由だけで、20人の共謀共同正犯の一人に認定され、死刑を求刑されることになります。信さんが事件と自分の関わりの構図をなかなか呑み込めなったのはこのためです。

 第一審が始まると、自白組の被告は、取調段階での自白を一斉に否認します。しかし、そこで検察側は、新たな分断攻撃を繰り出します。検察側は自白組の被告をそれぞれ分離して証人に仕立て、自白のない否認組の有罪証明に悪用しようとしました。

 こうなると、自白組と否認組の間の感情的な溝は避けられません。そこで信さんは、自分にも自白者になる危険があったことを率直に認めつつ、被告たちの団結した闘いを訴えました。最もつらい立場にあった赤間勝美さんは、信さんのこの言葉と態度に感激して、被告団の大きな懐(ふところ)の中に飛び込み、立派に成長していきました。信さんたちは、非党員だった被告たちにも入党して、ともに闘うことを呼び掛けます。

 信さんたちは、被告の団結を強め、裁判に勝ち抜くために、学習活動を殊のほか重視しました。獄窓を通じた討論の様子が獄中絵画の中にあります。信さんはまた、独自に哲学の学習にも力を注ぎました。そのため、信さんはロシア語を独習してソ連の哲学雑誌や専門書を読み進めるとともに、日本の著名な哲学者にも手紙で質問し、教えを仰いでいました。これらの事実は、信さんが遺した獄中ノートや手紙類からも確認できます。

 50年12月6日の第一審判決は、信さんら5人に死刑を言い渡しました。事の重大さを思い知らされた信さんは、家族の安泰を願って、八重子さんに離婚を勧める手紙を書きますが、八重子さんからの返事は、あくまでも信さんを信じ励ますものでした。八重子さんから信さんに宛てた手紙の末尾は、いつも「信様」または「信君」で結ばれています。

 また、信さんは獄中でも日記も書いていました。裁判が第二審に移った51年の新当用日記には、表紙の見返しに、「日記は人間の歴史である。永久に保存せよ。親愛なる信行君、青年になったらこれを読み、父を批判し、自己の行くべき途を自由に選べ」と書かれています。これは長男へのメッセージであるとともに、最悪の事態をも意識した遺言ともとれなくもありません。信さんにとっては、死刑判決への怒りとともに、その判決理由(判旨)がどうにも理解し難く、7月23日提出の控訴趣意書の執筆に苦しんでいました。その強度のストレスから、信さんは白斑病(一種の皮膚病)に苦しむことになります。それを知った子供たちが、父親の皮膚病に利くという塗り薬の材料となるトンボを捕っている場面が「手をつないで」にもあり、実際の写真が松川資料室にも保存されています。同じように、斎藤千さんは紫斑病にかかって苦しみます。

 そして、53年12月22日の第二審判決でも、信さんら4人が再び死刑を宣告されます。その直後の54年1月6日、八重子さんはいよいよ覚悟をかためて家族会の常任になります。同時に、信さんには、その判決文から、松川事件と自分の関わりについての偽りの全体構造がようやく見えてきました。こうして、「他人のウソの自白で殺されてはたまらない」(上告趣意書草案)をまとめ、さらに膨大な研究を重ねて全面的な上告趣意者を書き上げます。これを手にした広津和郎さんは、「これは立派な博士論文である」と絶賛しました。

 55年9月30日に膨大な上告趣意書を提出した被告たちは、手紙の発信活動にいよいよ本格的に力を注ぎます。こうして、獄中から15万通以上、獄中へ6万通以上、合せて20万通を超える手紙・ハガキが行き交いました。被告たちはまた、詩作や投稿を通じて同人誌との交流の輪を広げていきました。信さんの詩・短歌は、ノートに書かれたままのものを含めて相当の数にのぼります。獄中絵画の中には、信さんが描いた静物画もあります。

 松川裁判は、59年8月10日の第1次最高裁判決、61年8月8日の仙台高裁差戻審判決を経て、63年9月12日の第2次最高裁判決によって、被告の無罪が確定しました。その背後には、被告や家族たちの血のにじむような努力、弁護団の奮闘、支援運動の頑張りがありました。その後さらに、64年5月19日には、元被告と家族によって松川事件国家賠償裁判が提起されます。国賠裁判は、69年4月23日の東京地裁判決、70年8月1日の東京高裁判決によって、原告側の全面勝訴となりました(被告の国側が上告を断念して確定)。

 4 松川事件の生き証人としての信さん

 松川刑事裁判が終結して以後、晴れて無罪となった20人は、それぞれに新しい人生に向かって進むことになりました。その中にあって、信さんだけは共産党の常任活動家の道が用意されました。そうした選択の是非についてはここでは措(お)くとして、信さんにとっての松川事件は、たんに裁判に勝つだけではなく、事件によって失われた共産党の往時の勢力を回復し得た時にこそ、本当の終結を迎えることができるものだったのかも知れません。

 こうして、信さんは地元に復帰した松川事件元被告として、あるいは共産党の地元指導者として、被告時代にもまして多忙な日々を送ることになりました。ここでは、共産党役員としての信さんのその後の経歴などを並べ立てることは省略します。そして、信さんが共産党の中央委員・福島県委員長を退任した後の86年4月10日に、「鈴木信さんご夫妻を励ますつどい」が開かれました。とはいえ、地元共産党の顔という役割を終えたとはいえ、信さんは松川事件の顔として、その後も何かにつけて引っ張り出され続けました。

 しかし、このころから信さんにはひとつの明らかな変化が表れました。「自分は家庭をかえりみないで突っ走ってきてしまった。何というバカなことをしてきたのだろう」という言葉が、信さんの口から折に触れて聞かれるようになりました。その痛切な反省にたって、信さんは様々な機会につとめて八重子さんと行動をともにするようになりました。松川事件の記念行事しかり、松川資料室などへの来訪しかりです。これには八重子さんの永年にわたる労苦への感謝と労(いたわ)りが込められていたようです。2人の息子さんにとっても、信さんは父親である以前に、松川事件と共産党のものだったのでしょう。その間の空白を埋めるべく努力を傾注したのが、信さんの最後の仕事であったように思えてなりません。

 最後に、信さんを語る時に忘れてならないのは、その類まれな豊かな才能です。獄中日記や手紙類に見られる達筆ぶりは知る人ぞ知るですが、ある時そのことを指摘された信さんは、「いやァ、女房の方がもっと上手だ」と一言しました。八重子さんはもともと極めて控え目な方で目立ちませんが、確かにお2人は揃って達筆です。そして信さんは、たんに文字が綺麗なだけではなく、毛筆の達人としてもよく知られています。私たちが1999年に発行した『松川事件五〇年』の題字は信さんに書いていただきましたし、松川裁判の勝利を記念して64年9月12日に建てられた記念塔から借名した地元酒「松川の塔」のラベルも、信さんの筆になるものです。また、信さんが毛筆で書いておられた「松川俳句」は、信さんが優れた俳人でもあることも実証しています。「短歌や俳句は120歳までは続けるつもり」と言われたのは、つい最近のはずでした。信さんの画才についてはすでに触れました。

 私たちは、信さんをしばしば「人間国宝」呼ばわりして、健康と長寿を願ってきました。嗚呼(あァ)それなのにです。惜しんでも惜しみ切れない永遠の別れがついにやってきました。ここに謹んで、信さんの偉大な生涯に深い敬意を表し、改めて心から哀悼の誠を捧げる次第です。