重要資料、メモ等

殺人はバレる

平成23年10月11日付けで掲載した文書に代えて、改めて訂正補筆版を掲載いたします。
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(訂正補筆版)
 平沢貞一(注:正しくは貞通 さだみち)は、帝国銀行椎名町支店の銀行員に赤痢の伝染予防ワクチンと称して得体の知れない毒薬をのませ、これを殺害した疑いによって現在裁判に付されている。しかし、この事件の捜査にあたっていた警官および高木検事や、当時事件の報道に従事していた新聞記者の多くは、この凶悪な犯罪があるアメリカ人によって行われたことを知っている。
 銀行員中の唯一人の生存者村田マサ子(注:正しくは正子)は、最初、犯人が苦しみもがいている犠牲者の頭をこづきながら「ノースピーキング」と言っているのを見たと証言した。
 警視庁は検視の後、ある種の細菌がこの殺人に用いられたことを知り、軍医中将石井四郎が組織した有名な「細菌部隊」(注:いわゆる731部隊)の全スタッフの捜査に乗り出した。この捜査が完了しないまま、突然中止されたけれども、細菌学者である一米軍中尉が真の犯人であることがわかった。この中尉は犯行後ただちに本国に帰った。
 唯一の生存者村田マサ子は多額の「口止め料」をもらい、この事件を追及していた読売新聞の一記者と大急ぎで結婚した。

 元の国鉄総裁下山氏の未亡人および子息は、下山氏がアメリカの手にかかって殺されたと確信している。変死の現場付近の地面に大きな米兵の靴跡が残っていた。殺害の時刻と思われるころ、アメリカの軍用トラックが現場付近の橋を通った事実を付近の一市民が警察に届け出た。また運輸省の一官吏(注:大津正)は、下山氏が一米人と一緒にアメリカ(製)の自動車に乗って、国会議事堂の傍を通ったのを見たと証言した。
 これらの証言は故意にしりぞけられた。さらにまた他殺の事実を確証した法医学権威者(注:東大医学部法医学教室古畑種基教授)の発表に対抗するため、警察は小宮博士(博士は収賄事件に関与して名古屋大学から追放されていた)をはるばる名古屋からよんで、国鉄総裁の死は自殺によると発表せしめた。
 世人の頭はこれらの矛盾した発表によってまったく混乱に陥入った。アメリカ当局が日本の警察に向って捜査を打ち切るように命じたため、その後はなんら本腰の捜査は行われなかった。

 

 

 
 
 
 
 
 さらにまた、一般に松川事件と呼ばれている有名な列車転覆事件についてもアメリカ人が責任者であることは疑うべくもない。
 これには目撃者が一人いた。彼はたまたま脱線の現場付近を通りかかったとき、約12人程の米兵が枕木からレールをはずしているのを見て、一体何をしているのだろうかとちょっと不審を抱いたが、多分レールの検査をやっているのだろうと自ら納得し、大して驚きもしなかった。
 ところが、この仲間に加わっていた一人の日本人が彼の跡をつけてきて、わが家の戸を開けようとするところを、うしろから日本語で呼びとめた。
 この男は彼に向って、その夜見たことを口外しないようにと告げた。「口外するとアメリカの軍事裁判にかけられる」とその男は警告した。もちろん彼はそれが何のことだかまったく理由がわからなかったが、ただ「言いません」と答えた。
 翌朝になって初めてわかった。彼はこの転覆事件に不安を感じ、胸がしずまらなかった。とくに、労働組合の指導者に嫌疑がかけられていることを新聞で読んだとき、ますます怖(おそろ)しくなった。
 それから5日後、一人の見知らぬ男がやってきて、彼に福島市のCIC(注:対敵諜報部隊)の事務所の位置を記した地図をみせ、「明日ここへ出頭して下さい。話したいことがあるそうだから」と告げた。
 この目撃者の名は渋川村の斎藤金作といった。彼は本能的に投獄されるかも知れないと感じ、その恐怖はさらに増した。そこで彼は(注:第一審判決が迫る1950年11月中旬に)自分の家を逃げ出し、横浜で三輪車(注:人力タクシー)の運転手をやっている弟(注:博)のもとに身を寄せた。そして彼自身も三輪車の運転手となった。
 しかし、彼が三輪車の運転手になって2ヵ月後、1950年(注:正しくは1951年)1月12日(注:黒人兵を乗せたまま)彼の行方がわからなくなった。彼が姿を消してから5日後、三輪車を見つけた警官が弟の博のもとに三輪車を届けてきた。車体にペンキで書かれていた住所によってわかったのであった。失踪して40日あまりの後、3月になって、博は彼の兄の死体が入江に浮いているのが見つかったと聞かされた。博と金作の家族は屍体を確かめに行ったが、そのときはすでに火葬されていた。金作の家族は検屍の結果をつぎのように知らされた。「傷を負っていなかった。右手は手袋をはめずに外套のポケットに突っ込んでいた。胃の中にはアルコール飲料が残っていた。腕時計をはめていた。金は持っていなかった。」と、また、泥棒に襲われたのではないだろう。死ぬときにはたいしてもがいていないことが検屍の結果わかる。「多分酒に酔って、入江に落ち込み、心臓麻痺で死んだのだろう」と、このように彼らは聞かされた。彼の死体が発見された場所は三輪車が発見された位置からはるか遠く距(へだた)っていた。検屍はクリークに40日浮かんでいた場合にあり得る状態とはまったく相違する状態を告げていた。
 数日後、見知らぬ男が博を訪ねて、名前も言わずに金10万円を置いていった。彼はただ一言「兄さんの御不孝については何も言わない方がいいですよ」と告げた。
 博は悩み苦しんだ。何者かに追われるかのように、横浜市磯子区森町から同市南区中村町に引っ越し、やがておしまいには故郷の田舎に帰ってしまった。彼は現在そこで暮らしているのだが、不安と恐怖にせめられて悪夢のような日々を送っている。

 

〈解説〉
 ここに紹介した文書(英文タイプ3枚)は、東京京橋郵便局1952年6月10日付けの消印で、九州大学法学部、総評、国労、日教組、自由法曹団、国民救援会、吉田三市郎弁護士、布施辰治弁護士、大手新聞社などに送られてきたものであり、その内容は共同通信を通じて地方紙にも行き渡った。
 この文書が発信された時期は、この年4月28日にサンフランシスコ(対日講和)条約が発効して、GHQ(連合国軍最高司令部)が解体され、日本の主権がともかくも回復した直後であった。そうした文脈からみると、文書の発信人はGHQに何らかの関係があった人物が、離日・離任にあたって真実を知らせておきたいと考えた可能性がある。また、あまり上等とは言えない英文からは、筆者が下級のGHQ要員または日本人である可能性もうかがえる。あるいはまた、これが進行中の松川裁判(第二審段階)に混乱を持ち込むことを狙った新たな謀略文書である可能性もあった。文書の配布先として、新聞社のほかに自由法曹団や国民救援会などが選ばれていたことも、意味がありそうである。
 これに対して、被告の有罪を確信する(すでに第一審では全員有罪判決)マスコミは無視し、弁護団側も確証のない情報に飛びついて足元をすくわれる危険を慎重に回避した。同時に、この文書の内容に関連して、関係者による慎重な調査が行われた。その結果、確かに斎藤金作なる人物が実在し、彼が失踪・怪死した事実も初めて確認された。つまり、この文書はただのニセ情報ではなかったのである。
 ここに紹介した訳文は、広津和郎著『松川事件のうちそと』(光書房、1959年3月)225~229頁から引用したが、今日では英文の原文が見つからないため、字句訂正や補筆などは最小限度に留めた。ご覧のように、手紙の内容は大きく3つの部分(帝銀・下山・松川)に分かれている。そこで、この文章に関連する限りで簡単にコメントすることにしたい。
 帝銀事件(1948.1.26) …毒薬を飲まされた銀行員12人が死亡、18万円余が奪われた。
  帝国銀行 …1944.4.1設立(三井銀行・第一銀行が合併) →48.8.1十五銀行を合併
        旧2行の事務方式の違い、人事面の対立などで業績後退 →再分割へ
        1948.9.23帝国銀行解散 →(新)帝国銀行(十五銀を含む)、第一銀行
        1954.1   (新)帝国銀行 →三井銀行に改称
  帝国銀行椎名町支店 …豊島区長崎1丁目(西武池袋線椎名町駅の北側、長崎神                                             社脇)
                  分割後は(新)帝国銀行に所属 →1950.3閉店
  平沢貞通(1892.2.18~1987.5.10) …画家、帝展に9回入選、文展に7回出品など
  事件は平沢の単独犯行と認定され、1955.4.6最高裁大法廷で死刑が確定
  平沢はその後、18回に及ぶ再審請求を行ったが、叶わぬままに95歳で獄死
  米第8軍公衆衛生課 …近くで発生した集団赤痢(チフス)の処理に深く関与
  実行犯(東京都の腕章) …「GHQの命令で集団赤痢の現場から消毒のために来 た。」
  731部隊の影 …満州での細菌・毒薬兵器の開発・使用に関わった者のみが実行可能
          米軍に各種生体実験の資料を提供することで戦争犯罪から免責措置
 下山事件(1949.7.5) …初代国鉄総裁下山定則(1901.7.21~49.7.5?)が失踪・怪死
  1949.7.6未明、常磐線綾瀬駅手前の線路上で轢断死体が発見された。
  轢断地点に至る線路上に点々と続く血痕 …他所で殺害 →現場に運び放置
  東大法医学教室による司法解剖 …死後轢断(他殺)と断定 →自殺・他殺の大論争
  折から国鉄大量首切りの名簿発表の直後であり、国労・共産党犯人説が流布された。
  ほどなくして占領軍犯人説が浮上 →強引に自殺説で幕引き
  大津 正 …当時は民主自由党議員佐藤栄作(後に首相、1901.3.27~75.6.3)の秘書
        鉄道省時代からの佐藤の腹心の部下で、下山総裁との重要な橋渡し役
  下山総裁 …今日は「佐藤さんの所に寄るのだった。」(当日朝に専用車中でつぶやき)
 松川事件(1949.8.17) …東北線金谷川~松川間で列車が転覆、機関士ら3人が死亡
  渋川村(1889.4.1) →安達町(1955.1.1) →二本松市(2005.12.1)
  斎藤金作(1908.5.9~51.2.?) …金谷川村生まれ →満州 →シベリア抑留 →帰還
  斎藤外風(金作の俳号) …松川事件の現場を目撃してしまった不安・恐怖も詠んだ。
               「宿命の試練に泣く日笑う夜」など
  斎藤金作の福島脱出 …まず東京・昭島の安斎金治(親友)を訪ね、さらに横浜へ
   「夜おそく現場をとおったら人がたくさんいた。横道へ行ってみたら引き上げる(ママ)らしかった。背の高い人間だった。そのことがあってから、しょっちゅう警察のものがきた。事件を知っているのは私一人だから、いわせまいとしてつけまわすらしい。」(安斎が金作から聞いた話、共産党機関紙「アカハタ」1958.7.16付け)
                         (2011.11.11補訂 伊部正之)

資料紹介(絵画・色紙)

被告たちは第二審ごろから手紙・詩作に取り組み、最高裁段階からは画家岡本唐貴の指導と援助で杉浦三郎らが絵を描いて、支援者らに相当数が送られた。また、松川救援色紙展などにも出品された。(『松川運動全史』(1965年)383頁を参照)

タイトル(仮題)は松川資料室(伊部)がつけた。
サイズは縦×横(cm)、特に断りのないものは水彩画
作品の表裏に書かれた詩やメッセージはすべて採録した。
メッセージ …補正は最小限に留め、数字はアラビア数字に変えた場合がある。
必要に応じて簡単な補注を付記した。

なお、ここに公開しているものは、資料の一部である。

杉浦三郎 …第一審:死刑、第二審:死刑、勾留期間1949.10.4~59.7.1
「ひまわり」 …裏面にメッセージ(37×27) 1955.8.25

ひまわり1955.8.25ひまわり(裏面)1955.8.25

上村幸子ちゃん宛て …上村広氏(新潟県十日町市で工房を経営)の息女
先に向って燃ゆるが如く 咲きほこるひまわりの花
先に向ってほこらしげに すくすくとのびゆく幸子(さちこ)
1955年8月25日 杉浦三郎  
「寒ぼたん」 …上段に絵(25×22)、下段に8人のメッセージ 1956.2.1
寒ぼたん1956.2.1寒ぼたん(裏面)1956.2.1

 

全駐労JCE 石母田宗(たかし) 様   松川事件獄中一同
御・・・・・厚く御礼申上げます。御蔭様で寒さにも負けずに頑張っております。今後共よろしくお願申します。 杉浦 三郎   
皆様の御支援まことにありがとう御ざいました。心から御礼申上げます。本年は大切な年ですので全力をつくします。  阿部 市次
皆様の温い御援助に厚く御礼を申し上げます。今年は私達の決選の年でありますので全力をつくして参ります。何卒よろしく御指導を御願い申し上げます。 赤間 勝美   
多大な御厚情をいただき、本当にありがとう御ざいました。遠く仙台の獄窓より心から感謝の言葉を捧げます。今年は本当に最後ですのでどうか今後共よろしくお願いして止みません。不束ながら獄中より石母田さんの御健幸をお祈りしながら。 高橋 晴雄
正義の闘い仮りに敗れても後々まで伝統となって正義を守る力になる。勝利は再びくり返させない保障の砦となる、と信じています。皆さんの御援助をお願いします。 本田 昇
御心からの御力添に対し厚く御礼申上げます。今年こそどんな事しても犯人の汚名を返上する覚悟です。何卒いっそうの御指導、御力添をお願い申し上げます。 二宮 豊
心から御礼申し上げます。真実と平和のために全力をつくします。 鈴木 信
心からのお力添の心深く感謝いたします。真実の勝利に向って更にがんばります。御指導の程切にお願い申し上げます。 太田 省次 
詩(裏面)
冬の寒むさにもまして 冷たく見下す監視台
地獄の庭にも 太陽は光をそそぎ
寒ぼたんは 美しく色づいている
1956年1月 杉浦 三郎
「北富士」 …上段に絵(19×27)、下段に5人のメッセージ 1959.1.
北富士1959.1

 

国鉄労組新潟地本の皆様 松川事件獄中被告一同
激励のことばをいただき、心から感謝申し上げます。最善の努力をつくします。 本田 昇   
お配慮に感謝します。皆さんとともにたたかい、生きていることを自覚して進みます。 鈴木 信   
いつもお世話になってます。力強い激励のおことばを頂き、本当に有難うございました。全力をつくして参ります。 二宮 豊   
皆さんの逞(たくま)しい闘いにひきよせられて、私も此処(ここ)迄きました。あと一息と存じます。よろしく御指導下さい。御礼迄。 阿部 市次   
冬来りなば春遠からじ。皆様方のお力で勝利の日の近いことを信じて頑張っております。 杉浦 三郎
「紅梅」 …上段に絵(18×27)・下段に6人のメッセージ 1958.1.19
 
 
佐藤與一郎 様   松川事件獄中被告一同
いつも温かいお力添えをいただき御礼申し上げます、真実のために努力して参ります。 本田 昇    
おかげさまで元気でたたかっています。一貫して真実のために努力します。 鈴木 信    
いつもいつも大きな御厚情を頂き、本当にありがとうございます。貴方からの御支援は、必ず私たちの無実の真実を勝利させて下さることを確信しています。ここに私のすべてを込めて感謝の意を捧げます。 高橋 晴雄   
何時もお世話になっております、お蔭様で益々元気に斗っております。全力をつくして参ります。 二宮 豊    
心から御礼を申上げます。元気で全力をつくして参ります。今后共どうぞよろしく。 阿部 市次   
強い根と幹に守られた枝は切られたり折られたりする度にふえてゆき、嵐にも雪にもたえて大きくなってゆく芽のように、皆様に守られて強くなってゆきます。 杉浦 三郎   
 「アサガオ」 …上段に絵(22×18)、下段に8人のメッセージ 1955.8.15
 

 

伊藤 様    松川獄中の一同
この度は沢山の差入れ物を頂きまして有難う御ざいます。厚く御礼申し上げます。皆様のお力添えに見守られながら元気で趣意書作成に頑張って居ります。今后もより一層の御支援、御指導下さいます様お願い申し上げます。御健康祈ります。 赤間 勝美   
坂本さん、大野さんから御支援下さいましたことおききして感謝致しております。本当にありがとうございました。厚く御礼を申上げます。御健康を祈ります。 あべ いちじ  
差入れを有難う御座いました。厚く御礼申し上げます。朝つゆをけって飛出す蛙のように元気で頑張ります。 杉浦 三郎   
御支援と御援助に深く感謝いたします。昨日は坂本さん、大野さんより美味しいお差入れ沢山頂きまして、ほんとうにありがとうございました。この後共よろしくお願いします。 太田 省次   
福島の香りのする贈り物に接し、喜んでいます。平和と真実の力として受取りました。 鈴木 信   
わが郷土の人々からの贈りものと云うので、獄中ではとたんに万才を叫びました。福島の春は…包紙一つ一つにも万感の想いが出され、こんなうれしかったことは、近頃にありません。一層元気に、すべての真実のために頑張ることが出来ます。本当に有難う御座いました。 高橋 晴雄   
おくり物ありがとう御座いました。暑い毎日ですが、こんどの贈り物で須川の土人島を思い出しました。ごましををふったように賑やかでしょうね。 本田 昇   
心からの沢山の贈物を頂きまして有難うございました。御心からの御力添ひを感謝いたして居ります。今后共よろしくお願い申上げます。頑張ります。 二宮 豊   
(注)絵の左上に「朝だ 夜明だ 団結だ」、右下に握手の絵
上告趣意書 …1955.9.30が提出期限
須川 …本田被告の実家の北側を東流して阿武隈川に注ぐ川。
土人島…須川の対岸では子供たちが堤防から裸で飛び込んでいた。
                      提供者:伊藤よし子さん(婦人論研究会)
   

松川の塔(松川記念塔)

松川記念塔
場 所 …JR東北本線金谷川~松川間、上り線の右脇、西方200メートルに松川事件現場
      当時の松川町の北辺(現在の福島市南部)
 除幕式 …1964.9.12(松川事件の無罪確定判決から1周年の記念日)
 碑 文 …広津和郎が起草、若干の字句修正を経て完成
 目 的 …「二度と松川をくりかえさせないために」(塔の裏面に刻む)

補足説明1 松川事件
 と き …1949(昭和24)年8月17日午前3時9分(現在の2時9分)ごろ
 ところ …東北本線金谷川~松川間(現在の下り線)の上り右カーブ地点
      当時は単線(上下兼用)、駅間表示は列車の進行方向によるのが相当
 状 況 …外側(左側)レールが外され機関車などが脱線転覆、乗務員3人が死亡
      レール取り外し地点は当時の金谷川村 →1955.3.20松川町に合併
      機関車転覆地点は当時の松川町 →1966.6.1福島市に編入
 被疑者 …国鉄労組福島支部10人、東芝松川工場(→北芝)関係10人を逮捕・起訴
 裁 判 …第一審・第二審で死刑・無期懲役を含む重大判決
      第1次最高裁で差戻し →仙台高裁で全員無罪 →第2次最高裁で無罪確定
 
補足説明2 広津和郎(1891.12.5~1968.9.21 小説家・評論家)
碑文背後に政治的意図が見え隠れする松川冤罪裁判を無罪に導いたのが「松川運動」。広津は被告たちの文章を綴った『真実は壁を透して』(1951)を読んで被告の無実を確信。以後、「中央公論」誌上で第二審判決批判を長期連載、執筆・講演・座談などで奮闘。1958.3.9松川事件対策協議会(松対協)結成、広津が会長として重責を果たしていく。ひきつづき松川記念塔建設委員会の会長として「松川の塔」の完成に貢献した。

補足説明3 関係資料(松川資料室所蔵)
 「松川の塔」碑文の拓本 …105×90センチメートル →および色紙(ミニチュア)版
 広津による碑文原稿(現物) …ガラスケースに常設展示
 「松川の塔」ミニチュア   … 同       上
 松川の塔(カラー写真パネル)
 「松川記念塔」建設運動資料(ファイル) …松川運動資料のコーナーに収蔵
 本田昇(元被告)「二つの碑 ―松川事件現場に立って―」(『ひろば』185号、1992.2)
 広津和郎の著作 …『松川裁判』『松川事件と裁判』『広津和郎全集』『裁判と国民』ほか
 広津和郎の写真・肖像画 …各種多数

伊部 正之(2011.6.28)