事件のあらまし

事故、そして起訴

事故現場
1949年8月17日午前3時9分(現在の2時9分)、東北本線の金谷川~松川間のカーブ地点で上り普通旅客列車が脱線転覆し、先頭蒸気機関車の乗務員3人が亡くなりました。原因は何者かがカーブ外側のレールを取り外したからでした。この事件は、当初は松川事件その他さまざまに呼ばれましたが、裁判が仙台高裁に移って後、この松川事件の呼び名がようやく定着しました。
ともあれ、この事件の犯人として、国鉄と東芝松川工場関係から各々10人の労働者が逮捕・起訴されました。被告たちが労働運動の取締りや大量解雇などに不満をもったこと、8月12日~16日の一連の順次共謀(前後関係のある共同謀議)によって事件を準備したこと、それにもとづいて東芝側の3人が松川駅の線路班倉庫からバール、自在スパナ各1挺を盗み出し、国鉄側3人と東芝側2人が現場付近で落ちあって20分ほどでレールを取り外したこと、これが検察側による起訴事実の概要でした。

取り調べ、一審

取り調べ
松川裁判は、第一審の全員有罪(死刑5人、無期懲役5人など)から出発して、控訴審(17人有罪、3人無罪)、上告審(原審破棄、高裁差戻し)、高裁差戻審(全員無罪)、再上告審(無罪確定)までに14年がかかり、63年9月に決着しました。被告たちが全員無罪になったのは、この事件が全くの冤罪(えんざい)事件であることが証明されたからでした。
たとえば、この事件では8人の自白が証拠とされましたが、それはいずれも取調官の脅迫・誘導によっており、事実とも矛盾していました。検察側は公判を維持するのに不都合な大量の自白・供述調書を10年間も隠しつづけました。松川駅から盗み出されて線路破壊に使われたとされたバールは国鉄のものではなく、自在スパナも盗まれてはいませんでした。これらの道具は、警察側が先にその使用を断定し、後から現物が発見されるという妙な代物でした。さらに、自在スパナは線路工事用ではなく、バール1本でレールをずらすことは不可能でした。また、跳ね飛ばされたレールの状態からみると、レールの両端の継目板が外されたことは明らかであり、検察側は第二審になって2組目の継目板をしぶしぶ提出しました。しかしそれは、5人による20分ほどの作業という筋書とは辻褄が合いませんでした。
さらに、共同謀議や実行行為についてのアリバイ証拠が、故意に隠されたり改ざんされたりしていました。たとえば、12回の共同謀議のなかでもとくに重要な意味をもつ(国鉄と東芝を結びつける)13日と15日の連絡謀議は、重要な出席者の現場不在を証明する郡山市警察署「接見簿」や「諏訪メモ」(団交メモ)などが隠されつづけていました。国鉄側からの実行行為者とされた一人が歩行困難の障害者であることを知った一審裁判長は、病院から取り寄せた鑑定書を隠したままで有罪判決を下しました(二審で発覚)。この種のうしろ暗い事実はほかにもたくさんあります。

署名・松川運動

松川運動
にもかかわらず、一、二審の判決が当日あるいは直前になって延期され、しかも重大判決になった背景には、占領軍およびその後継組織からの強力な圧力と脅迫がありました。
しかし、裁判が進むにつれて、検察側の主張が次々とくずれるとともに、検察・警察側の不法行為も次々に明らかになりました。こうして、公正裁判の実現と被告の救援をめざす広汎な国民運動(松川運動)がもり上がるなかで、最高裁は事件を仙台高裁に差戻し、その差戻判決は、「珠玉の真実」として被告の無実(事件とは無関係)を論定し、あわせて検察・警察側の一連の行為をきびしく論難しました。ところが、検察側はあえて再上告しました。そのねらいは、検察側の面子(めんつ)を立てること、時効(15年)までの時間稼ぎをして真犯人追及の責めを回避すること、最高裁での微妙な力関係のもとであわよくば逆転有罪判決を期待することでした。その再上告審判決は、上告棄却によって被告の全員無罪を確定しました。
晴れて無罪となった元被告と家族たちは、こうした権力犯罪を追及するために、改めて国家賠償裁判を起こしました。その第一審判決は、「原告(元被告)は全証拠に照らして無実」であり、さらに「本件捜査、公訴の提起(起訴)およびその追行(裁判の継続)は一連の行為として違法」として、被告(国)に賠償を命じました。この判決は二審判決でも支持されて決着(国側が上告を断念)しました。つまり、元被告たちの無実が重ねてより明確に論定されたのです。

被告

被告
それにつけても、なぜこのような重大事件が発生し、露骨な冤罪裁判が行われたのでしょうか。
松川事件が発生した49年当時、日本はまだ占領体制下にありました。そのなかで、東西冷戦が本格化し、アジア・極東情勢ではとりわけ中国革命の成功が目前に迫っていました。そこでアメリカ占領軍は、当初の民主化方針を大転換して、日本経済をアメリカ・ドル体制のもとで復活させる必要に迫られました。そのための荒療治が、49年のドッジ・ライン政策(超均衡予算、1ドル=360円の単一為替レート、耐乏生活と輸出推進など)の断行でした。こうして官公庁の「行政整理」、民間企業の「企業整備」という大リストラ計画が強行されることになり、これに反対する労働運動の先頭には国鉄労組と東芝労連が立っていました。
7月5日の下山事件(国鉄総裁失踪怪死事件)、15日の三鷹事件(無人電車暴走事件)、8月17日の松川事件は、いずれもこの国鉄争議・東芝争議の節目に発生しており、その結果、国鉄の10万人首切り、東芝の大量首切り・工場処分計画は、ほぼ当局・経営側の思惑どおりに決着しました。国鉄・東芝の決着は、他の官公庁や民間企業の大量解雇・大合理化への露払いとなりました。

勝訴

勝訴
また、松川事件が福島県で発生したことの背景には、国鉄労組(福島支部)と東芝労連(松川工場労組)が近接して活発に活動していたことのほかに、戦後経済の再建に重要な意味を持つ常磐炭田や猪苗代水系の電源地帯(いずれも首都圏に供給)で活発な労働運動が展開されていたこと、東北・北海道への関門にあたる福島県で東北随一の共産党組織が形成されていたこと、などがありました。つまり松川事件は、全国的にも地方的にも共産党と労働運動の両方を一挙的に押さえ込もうとするねらいをもつものであり、そのために手段を選ばぬ違法行為が駆使されたのでした。
ともあれ、こうして松川事件は、国鉄乗務員3人の命を奪っただけではなく、被告や家族など多くの人たちに司法殺人をふくむ重大な脅威を与えましたが、そのことがまた多くの国民に人権と民主主義、司法のあり方について改めて自覚させることになりました。
そして、松川事件の現場には犠牲となった3人の乗務員をいたむ殉職碑と供養塔が並んで建てられ、現場を見下ろす丘の上には、松川裁判の勝利を記念する「松川の塔」(表紙写真)が建てられています。金谷川駅に隣接する福島大学では、松川資料室を開設して、関係資料の収集・整備作業をつづけています。

※ 本文中のイラストは、福島大学教育学部(当時)社会科の学生が1985年に制作した紙芝居「松川事件」から引用しました。